価値論を引っ込めたのよかったか。
そのときは、そういう時代だった(ドラクエでいうと「ガンガンいこうぜ」みたいな時代だった。それが価値的だったのです。価値論は宗教批判の機能をするものだから。実際にこの信仰で救われた人はたくさんいます。僕もその一人です。母も父もそうでした。)。しかし、今は違う。

価値論を全面に出して、もっとソフトな、でも経験的な真理(どこまでも構成したものですが、その中には妥当なものがたくさんあります)の探求には厳しいような、今の時代にあったものができるのではないかと思う。価値論を全面に出すから、理性を大事にする人たちに信用してもらえると思う。


創価学会の独自性は信仰の理念に価値論を取り入れたところにある(ただ残念ながら価値論から日蓮が必ずしも正しいとは導かれることはない)。

日蓮正宗の元々の思想は、世界に通用しない(大御本尊どうとかなんて、死ぬほどくだらなくてどうでもいい。日蓮を貶めないでほしい)。
創価学会に乗っかっていたのが、少し世界にまだ残っているのかもしれないけど。

世界に通用しないものを(だから別れてよかったのです。柄谷の宗教論を読むとわかる。世界宗教の条件に合わないから)、
もう一度、日蓮に帰って、普遍的な部分を取り出そうと思想的な努力をされたのが(古今東西の思想宗教哲学との比較から)、三代会長の池田先生だと自分は思います。日蓮正宗ではなくて、日蓮の思想そのものに帰る必要があります。




池田先生は学問が大事だって、言ってた、なんどもなんども繰り返し。
それがなかったら、信仰は狂信でしかない。


ガチの理性による批判に耐えられない信仰なんて、信仰の名に値しない。そんなものは、全部捨てた方がいい。


カントの理性批判の偉大さは、ここにあるよ。理性の限界を明確にしたこと。つまり信仰の領域を理性的に確保したのだ。科学にはどうしても及ばない、扱えない問題があるのです。


信じるか信じないかなんて、真面目な理性による批判の後に残るものでしか問題にならない。その前のものは躊躇なく捨てる。いらない。