これこれ!
ジュリアンと自分は近いスタンスだと思う。


ゲントナー、アトウェル、牧口の共通点と差異。共通点はあるけれど、それぞれに価値があること。僕が関心を持って探求しているスタンスと同じ。

道徳を基礎づける 孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ (講談社学術文庫)

道徳を基礎づける 孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ (講談社学術文庫)

『道徳を基礎づける』ジュリアン
まだ読み途中ですが、この本すごくいいです。

新カント派とは、カントによって打ち立てられた断絶を復活させるという絶えず繰り返される命令であり、それは断絶の必然性を再確認するとともにその規模を測り尽くすためである。(その意味ではわれわれはみな新カント派である。)−無言の歴史−
「新カント派」という用語によって指し示されるものは、ある「運動」や哲学上の「流派」である以上に、カントによって打ち立てられた断絶を、西洋思想が乗り越えることができなかったということだ。−無言の歴史−

これはフーコーの言葉だけど、この意味でフーコーも新カント派ということか。ドゥルーズもカントの断絶で新しい問いを確か立ててた。

今読んでいる本との関連で、ルソー、カントの流れと別のことを孟子は明らかにしているとのこと。両者を統合するのではなくて、ルソー、カントと孟子を比較、批判し続ける先に賢者の石があるらしい。

新カント派で思い出すのは、僕は牧口常三郎

レヴィナスの根底的受動性というのとも類似しているかもしれない。

ルソーと孟子に共通するところに「憐れみ」があるのがわかりました。これと「根底的受動性」似ているし、仏教の「慈悲」とも似ていると思います。

中国の思想家たちは、カントにみたいに分断することなく、いつも関係からプロセスとして道徳というものを考えていました。考え方の枠組みがルソーたちとは、違うようです。

孟子いわく、その憐れみの善性は、先天的にどの人にもあるけれど、後天的に成長していくらしい(失われることもあるらしい)。経験的に確かにそうだと思う。やはりそれが育っていくとトルストイみたいになっていくのかなあ。


私達は道徳によって欺かれてはいないだろうか。それを知ることこそが最も重要であることについては、たやすく同意が得られることだろう。−全体性と無限−

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