なぜ世界は存在しないのか

『なぜ世界は存在しないのか』を読んでいる時に、マルクスガブリエルの構築主義に対する怒りのようなものを感じました。その怒りが自分の練り上げ帝国に対する感情と少し似ているように思いました。いや、すごく似ている。



思考できないから存在しないとは言えないと思う、対象として存在することができないとしても。ブッダみたいにあるとも言えないしないとも言えない(無記)という態度がいいかもしれない。カントの物自体はよーわからん、認識できないというのとも似ていると思う。
なんで、死んだらなんもないと言い切れるのだろうと著名な哲学者の発言を読んで疑問に思ったことがあるのですが、こういうマルクスガブリエルみたいな判断と似ているのかもしれない。自分とは違う。
マルクスガブリエルが自然科学が対象とする世界は限られているのだと主張するように、人間が認識できる世界も限られている。世界自体も認識できないし、思考もできない(世界の中にいるから。世界の中で思考する世界は世界そのものと違うし、世界そのものを直観することが原理的に不可能だから)。しかし、だからと言って無いとは言い切れないと思う。
なぜわからんことに対して、学問的にわかるように言い切ってしまうのだろう?
直観することが原理的に不可能であることから存在しないと決して言い切れない。判断できること、できないことの区別をつけた方がいいかもしれない。からこそ科学的哲学的(学問的)態度を尊重しつつ、信仰の領域が残るのだと思う。




原理的にわからないことにないとかあるとか判断を下すこと(ここでは世界がないということ)についてよくわからないけれど(いや、わからないというか間違っていると思うけれど)、マルクスガブリエルの本はすごく面白かったです。ギリシャ哲学以降の素養がなくても(僕もほとんどないですし)読めるし、その内容には命を捧げて綴った気迫があります。楽しかった。ショーペンハウアー、ガダマー、キルゲゴール、デリダソクラテス、カントなど色々な人が登場して、その人たちについて少し知っていたから理解の助けにはなったけれど、知らなくても読めると本だと思う。マルクスガブリエルが一から考え直して書いているからだと思う。一度、全部疑って一から書いてるからだと思う。彼は哲学者です。面白い本!!(でも、哲学者になることの悲しさや孤独についても思う)


この本を読んで、世界そのもの(全体)ついて決して直観できないということがよくわかった。
物理学が対象とする宇宙と世界の区別の話も面白かった。



カントやスピノザみたいな演繹的なのはダメなのかな。帰納法は常に不完全みたいだけど。

そんなこと考えている場合ではないか。今日はお仕事。でもいい息抜きになりました。宇宙と世界の違い、よくわかりました。





ブッダやカントの判断が正しいと思う。

世界そのものを直観できないという話題から、『なぜ世界は存在しないのか』はカントの認識論の枠組みの中にある本です(カントを否定しつつ)。


で、私はスピノザの一元論に戻ります。一元論の中の多元論です。それは大昔のインドからある「バラバラで一緒」という考えと一緒です。一元論か多元論かという問いが、おそらく間違ってる。一元論か多元論かという問いが、おそらく間違ってる。原理的にわからないのだと思う。


一元論か多元論かという問いが、おそらく間違ってる。原理的にわからないのだと思う(多元論であることは経験的に間違いなくて、一元論であることは原理的に、経験的にわからない。だから、マルクス・ガブリエルみたいに、世界が存在しないとは言えない)。