僕たちの見ている世界は一面的で、一見、偶然のように見えても、本当のところは僕たちの知らない原因によって、今あるすべての結果は必然的に起きているという考え。自由意志の否定。
これがスピノザの考えだったと思うけれど(それで、にもかかわらずという話が続く)、この時点でスピノザの考えは、どこまでも推測(もう始まりが推測)。エチカが神は無限だとか言って始まって演繹法で書かれている本。アプローチが独特。こういう思考って、どんな役割があるのだろうか。
だけどこの推測が仮に正しかったら、残りの論理的に導出される命題もすべて正しいということか(論理的には)。それにどう言った意味があるのだろうか。



現象学と牧口は、経験から出発せよという前提が同じ。
自分の経験を振り返っても、人には気まぐれな判断がある。その判断には特に理由はない。そういったことが積み重なって影響を与えていくことを考えると、偶然はあるのかなと思う。偶然があることを確実に証明できないのかな。
思考実験。仮に全ての原因を知ることができたとしても、人には気まぐれな判断があるから未来は予測できない、いろいろな可能性がある。だとしたら、全ての未来の結果は必然ではない。だから偶然は存在する。
スピノザはエチカで偶然を定義しているのかな。因果関係がない系列。因果関係があるようにしか思えないこと、あとはそう言った偶然が一緒にあるように、経験を振り返ると考えられる。因果関係の系列にあること、あとは意図しない因果関係に属さないこと系列にあることがミックスされた世界を生きていると考えますけれど、どうなんでしょうか。