感情 思考 発散

人間は感情の動物だとたしかいわれる。
先生が嫌いだと、その人の関する知識が入ってこないとか、そのような内容を何回か聞いたことがあります。例えば算数の先生が嫌いだと算数が嫌いになり、その知識がなかなか入ってこないとか。これって経験的にほんとうのことだと思います。ここで一番大事なのでは、テクニックもとても大事ですが、人として「誠実」なことだと思います。これは僕が幼稚園から20年くらい学校教育を経験してきた実感です。今人を見ていて誠実な感じがあうる人は教育内容や方法は違っても、教え子たちに敬われている感じ、好かれている感じが僕にはしました。僕が教育を受けた経験で学校の先生を軽蔑するときには、「不誠実」を細かくじゃなくて、根本的に感じたときです。力があるとかないとかじゃないです。自分を棚にあげると、人として傲慢を、これも細かくじゃなくて根本的に強く感じたときです。たいてい不誠実な人は力もないですけど。被教育者としては、そういった人が多かったように思います。自分が直接指導を受けられる先生は全体から考えるととても少ないです。だからきっと誠実な先生はたくさんいらしゃったと思います。僕は運が悪かったですね。授業がずっと酷いこともあった。毎日自分と合わないとやはりきつかったです、本を読むか寝るしかできなかったです、ぶつぶつぼそぼそ言っているだけの授業なのに、もう既に完成しているかのごとく凄く偉そうでした。久しぶりに高校に帰れば、酷く侮辱されるようなことを言われたり、こんなに嫌な奴がいるんだなと思いました。今考えても、真剣に自分の進路を考えて悩んでいる10代の若者に言って許されるような言葉じゃない思います。その人は担任でもないし、授業も受けたこともない人でした。小学校のフォークダンスのような内容の授業で女の子と手をつなぐことを少しためらっていただけで、何の注意もなし壁に強く体ごと打ち付けれらて恫喝されたりした。竹刀を持っていたからね、その先生は。よほど自信のないかわいそうな人だったのかもしれないです。西洋の映画で見ましたが、ムチで子どもを打ち付けるタイプと同じですね。暴言、暴力。 人間として、卑劣です。勝手な想像ですが逆に子どもたちにやられた悲しい経験があるからファシスト教師になったのかもと思います。それでも自分を振りかえって改善するしかないですよね。でも、これのおかげ、子どもたちに対してかなりブレーキがうまくかかってる。恫喝はしないし怒鳴ってもしょうがない部分があって、怒鳴ったことはほとんどないです(繰り返した暴力と塾で他の人の勉強を繰り返し妨害した行為に合計2回です)し、注意なしに怒鳴ったことは一度もないです。自分を振返ったほうがいいです。これらをうまく反面教師で活かせればよい意味に変えることはできます。でも心次第で悪い意味のままになってしまいますね。意味が変わるというより、よい意味を心次第で加えることができるのかな。それにあとできるのは自分の中の傲慢との戦いですね。傲慢とは戦うことですね。

塾で叱る研修というのがありました。演技ですが、その塾の課長には「いうことがない」と言われ、叱ることに悩んでいて塾でこういう研修があったと妹に演技を見せたら「トラウマになるからやめたほうがいい」と言われました。これは細かくはどういう意味なのかわかりませんが、悪い意味に違いないので、これもブレーキになっています。自分も嫌な思いしてますしね。子どもたちに対しては強くブレーキがかかります。演技で練習する機会であまりブレーキをかけないで演じられたので、そういわれたのかもしれないです。それに恫喝長といって、一瞬で塾に北極の世界を現出できる先生が身近にいたからかもしれないです。人として許せないことがあると駄目らしいです。怒鳴ることも内容によりますね、この先生は、たまにですし、いい意味で本気で叱ってくれるという感じで、誠実な先生です。いっぱい怒鳴っている人で、怒鳴るのがうまい人がいると思いました。手加減がうまい。行動に対して短くてさっぱりして、後味がすっきりしている。それに納得できる内容だったと思う。怒鳴らないですむことが一番でしょうけど。納得できたったて、そういうことがたくさんあること自体がより根本的な問題ですよね。怒鳴ったり叱ったりできるだけしないで済むほうがいいですよね。