ヘッセ

「二人の友情関係を物語とした少し長めの『内と外』は、二つの顔を持つ、陶製の像をモティーフにして、内面と外面の二次元的対立の枠組みを誤りとして突き崩す神秘的思考の優位を語る。その思考は魔術と呼ばれているが、この「魔術はヘッセの作品を解くキーワードである。」解説より

論理学と科学を信頼するフリードリヒと、
「何ものも外になく、何も内にない。外にあるものは内にあるからである」という導入ではじまる認識論、すなわち魔術に取り組むエルヴィンの話。作品の成立1919年なので、「シッダールタ」と同じ。内容というか、テーマが両作品は似ているような気がします。

エルヴィン「何ものも外になく、何ものも内にない。これの宗教的な意味をきみは知っている。神はいたるところにいるということだ。神は精神の内におり、また自然の内にもいる。神は一切であるから、すべてのものは神的なのだ。ぼくは以前はそれを汎神論と呼んだ。次に哲学的意味だが、それはこうだ。外と内とを区別するのは僕らの思考の習慣なのだが、それは必然的なことではない。ぼくらの精神には、ぼくらが精神に引いた境界線の背後に、つまり彼岸に引き戻る可能性が残されている。僕らの世界を成立させるもろもろの対立岸の彼岸で、もろもろの新しい別の認識が始まる。――だがきみ、告白せねばならないが、ぼくの思考が変化してからは、ぼくにとっては一義的な言葉や文句はもはや存在せず、どの言葉も十通りの、百通りの意味をもつようになった。ここでまさに、きみが恐れる魔術が始まるのだ」

二つの顔をもつ陶製の像をエルヴィンはフリードリヒに手渡して、
「きみの手の中に置くこの物が、きみの外にあることやめて、きみの内にあるようになったら、またぼくのところに来てほしい!」こう付け加えると二人別れる。

陶製の像を壊された後の生活で、
フリードリヒに
「そうだ、今きみはわたしの中にいる」という言葉が突然意識に入ってくる。
フリードリヒはエルヴェンの書斎へむかう。

エルヴィン「あの偶像はまたきみから出てくるだろう。僕を信用したまえ。きみを自身を信用したまえ。きみはあの偶像を信じることを学んだ。今度は彼を愛することを学んでほしい!彼はきみの内にいるが、まだ死んでいる。きみとってはまだ幽霊だ。彼を蘇らせ、彼と語り、彼に訊いてほしい!だって彼はきみ自身だからだ!もう彼を憎んだり、恐れたり、苦しめたりしてはいけない――その不幸な偶像はきみ自身だったのに、きみはあれをひどく苦しめてきた!きみはきみ自身をひどく苦しめてきたんだ!」

フリードリヒ「これは魔術に通じる道なのかい?」

エルヴィン「これは、その道だが、きみはおそらくすでに最も困難な一歩を踏み出したのだ。きみは外が内になりうることを体験した。きみは対立する極の彼岸に出たのだ。きみにはそれが地獄のように思えたのだが、ねえ、地獄は天国だということを学んでほしい!というのも、きみの目の前にあるのが天国だからだ。いいかい、外と内を入れ替えること、これが魔術だ。きみがしたようにやむをえず、苦しみながらではなく、自由に、欲しながらするんだ。過去を呼び寄せ、未来を呼び寄せてごらん。二つともきみの内にある。きみは今日まできみの内面の奴隷だった。内面を支配することを学んでごらん。これが魔術だ」

ヘルマン・ヘッセ全集9』「内と外」日本ヘルマン・ヘッセ友の会・研究会編から