ゴルバチョフ対談

最近は友だちと池田大作ゴルバチョフ対談を一緒にペア読書しています。


世界市民を育てるという話の中で、戦前戦中の教育を強いられてきた一人として、教育の重要性を感じるといわれたうえで、次のような池田先生の発言がありました。「学校教育であれ社会教育であれ、教育は、強制や押しつけではなく、徹底して内発的になされなければなりません」池田大作全集105巻346項

この発言の後には、全人間的な触発の例としてソクラテスのシビレエイの話。「考える心」「伸びゆく心」を内側から引き出していく内発的な教育の例として戸田先生の数学の授業について話がありました。


戦前戦中の国体主義にもとづく歪んだ教育を強いられてきたという経験、また教育の目的やペスタロッチなどの教育思想や日蓮の思想などからこういう主張をされているのだと思います。ただの注入教育だけだと、どうしても教育の目的が達成できないと思う。基本的に内発的に思っていたのですが、「徹底的」というのはかなり強い表現をされると思いました。アドラーと響き合ってくるのかな。アドラーは徹底的だと思う。


褒めるというのは外発的動機付けだと思うけど、外発的動機が内発的動機に変わることがあります。だからアドラーみたいに褒めるのが一概にダメとは僕は思わないです。甘いのかな…。でも褒めることは教育で大事だと池田先生は言われています。これは「徹底的」と反してるかもと思ったりもする。でも池田先生にとっては褒めることは外発的な教育(経験)ではないのかもしれないです。というか、褒めるということが内発的なものに繋がっていけばいいのかな。それに一概に外発的な教育と内発的な教育と現実は分けられないか。そうだ、そうだ。100パーセント内発的な教育とか、100パーセント外発的な教育とか現実にはないな。褒めることは外発的な教育でもあるし、子どもが伸びようとする心を育てる意味では内発的な教育とも言えると思います。「徹底して内発に」ということはなんとなくわかります。やはりできるだけ内発的にということでいいのかなと思います。言葉の虚構性ということを仏教と西洋哲学で学びました。あとヘッセ。


あとアドラーってマルクスと似ているなと思ったことがあります。理論の青写真では完璧な世界で、猛烈な説得力で迫ってくる。イデオロギーを絶対視したのが、20世紀の失敗でした。マルクスは初期と共産党宣言のときと、晩年と考えた方が違うみたいですね。そこの一部分を絶対視してまずいことになった。




学校もそうだし、あと自分の学校以外の経験(教育)は、どうなんだろうと思います。


ゴルバチョフは20世紀に活躍した政治家の中でも、ほんとうに素晴らしい政治家の一人だと思いました。


共産主義に青年が夢中になったのはわかるような気がします。飢えや貧困のない完全に平等の世界。でも、ゴルバチョフいわく、ソ連邦の長年の経験でそれは無理だいうことがわかったそうです。その上でどうしていくのかということも対談のテーマです。