「したい」と「すべき」

「したい」と「すべき」を対立的に考えてもあまり意味がないと思いました。
すべてを「すべき」でと主張した三島由紀夫の「すべき」の奥には、中途半端にしたいように生きている人と比べ物にならないくらいの強烈な「したい(欲求)」が潜んでいたと推測します。


たぶん「したい」と「すべき」が一致するところがある。