動画 リーディングワークショップ 

http://blogs.scholastic.com/top_teaching/2009/10/reading-workshop.html
本場の映像をはじめた。ちょっと感動。テンション高くなります。わくわくする。楽しい。


授業改善のために精進しよう。
努力を重ね続ければもっと質の高い経験を創れる。
きっと善い教員になれる
(関係の問題。どんな相手でも力を引き出せる教員。)。前に進もう。


正直なんだコイツふざけるなと思う子もいるけれど、
(一言でいうと「やな奴」だと思う。
子どもにも大人にいる。そう思ってしまう自分もいる。)、
その子を変えられない自分が悪い(そう変えられない自分に「ふざけるな。」か。そこからスモールステップを刻んで前進の結果を出すのが自分の仕事。)。
学び手の視点から考えると最悪な感じの子もいますが(さらに視点を変えると自分も、その子に関わる子どもたちも鍛えてくれる子だと捉えることができると思います。)、
そんな学び手も、
人間としても学び手としても善い軌道に乗せる自分や授業を創ることが理想だと思います。

まず自分が酷い人間です。
愛が足りない。慈悲が足りない。技術も足りない。まず祈ること。

どうしたら勝てるか。鍵は授業(自分)の改善にあるかと思う。

ダイバダッタは善を高めてくれる存在。


ゴールは世界平和とすべての人の幸福。そのための学校と授業。それ以外に意味はない。そのための使命。使命を果すために生まれてきた(目標を決めて使命を果すプロセスが衆生所遊楽かと思う。)。どんな人にも使命がある。自分もある。やな奴だと思ってしまう人にもある。負けちゃいかん。


ある人のツイッターを読んでいて昔のことを思い出した。
十代後半で鬱の時には、生まれ来たこと自体が呪わしいことだった。生きていること自体が不快だった。生きていること自体が無意味に思えました。本当の強制は生まれてきてしまうことなど、自然の法則だけかもしれない。生まれてしまって戦場いるからには勝つしかないと思う(今は生まれ来れたことに感謝しています。それだけでも成長したと思う。前に進んでいる。)。価値と反価値の人間の世界。勝負の世界に生きている。


過去には、自分を殺そうとしてくる人の善性を信じて、その人にかかわり続けたとされる人がいたということです(釈尊・不軽菩薩など)。自分の生き方や関わり方について考えます。不軽菩薩の生き方。自分は子どもたちをどれだけ大切にできているのか。一瞬一瞬の行動にすべてが出る。


人を責める自分がまず責められるべき存在。
すべての明るい面を見ようとすること。
他人を責める暇がないくらいに自己の向上に専念すること。


振り返れば、自分も時にいや奴です。