自由。トルストイの言葉をよく思い出していろいろな場面で最近葛藤します。
心のある学習。心のない学習。
自由読書はシンプルですが、成功すれば確実に実り豊かの時間になっているだろうと思います。『読書はパワー』にあるように、フロー状態の読書を継続すれば自然にリテラシー能力を身につけることができる。それは子どもたちをそれなりの時間をかけて観察していると分かりますし、これから先もかなり推測できます。


一斉にやる部分は必要なだけにして(その課題ができれば全員の課題である時)自分の教育の理想像は全員が心ある学習を一生懸命取り組んでいる状態にあります、たぶん。
一つのことを深く追求すればおそらくどの学習でもすべての教科の知識や本質に行き着くと思います。算数を深くやっても国語があるし、国語を深くやってもその中に算数がある。社会科を深くやってもその中に算数や国語や理科があるし、理科をやっても算数や国語や社会科がある。国語や算数の中にも社会科と理科がある。


今思うのは自由読書と自由作文にうまく取り組めない状態で、
与えられた課題を読む、書くということで心ある学習が取り組めるかというとかなり難しいと思う。RW(自由読書)やWW(自由作文)は読み方や書き方を教えない授業ではないです。学習に取り組む人が学習の意義や一生懸命やる喜びに気づかないとそれが主体的な行動にはなっていかないと思う。


心のない学習だと思われるのを見ると決していい質の経験をしているわけではないなと思います。自由度の問題でもある。例えばある地域について自由に調べてもいいといっても、ある地域に興味をもてなければ、その地域のどんなテーマでも心のある学習はできないと思う。もっと学習する喜びに溢れた状態へ近づいていくためにできることは何だろうと思う。


心のない学習を強いるくらいだったら、どんな内容でも心のある学習をするほうがマシなことが多いと思う。でもそれをさせることに今の状態で壁があってうまくできていないと思う。みんな一緒のことをやっていない駄目という考えを強い。分からないけれど、その人の人生の価値創造のためだったら、バラバラの課題をやっていても問題がないように思う。どこに向かっているか。どちらにしても合っている課題がバラバラ。今まで経験した全部のクラスがそうです。でも一緒の課題もある。全員の課題。これは一斉で教える。すべてのことでレベルアップしていこう。よく自分の力のなさに悲しくなるけれど前進あるのみ。当たり前のことが当たり前にできるって当たり前でないのだと思う。その橋渡しができる自分になりたい。少しずつ前に進んでいる。大丈夫。学校にいれるだけで学ぶことがあまりにも多い。


算数なんか嫌いだという人が多い科目だと思うけれど、算数をすること自体の喜び
に気づくか算数をすること自体の必要性がその人の中にないと難しい。嫌いといっても、問題を解く喜びをまったく知らないわけじゃなくて、それを知っている上で嫌いだと言っている子がほとんどだと思うから。算数の意義についての理解に問題にあるのかもしれないです。


もっと自由度の高い世界があると思うでの実際に見てみたいです(学校や地域全体の取り組みで)。
伊那小学校の研究授業を一度は見にいきたい。レッジョエミリアの展示も見に行こう。



算数に関しての改善点。
本当に算数がよくできる子がいるので、その子をもっと伸ばしてあげられる環境(課題)が必要。問題集や本を手に入れること。



すべての明るい面を見ること。
今の自分の授業にも効果があってできていることがたくさんある。あとはそれを増やしていくだけ。今できることをして子どもたちの経験の質を少しでもよくしていくことが仕事。



改善点
もっとフィードバックの機会が多いほうがいい。