真の知性は相対思考、関係思考、システム思考なんだと思う。
すべてはおそらくつながっていて、一つの全体を織り成している。


自分だけよければいい、自分の国だけよければいい、
そのような考え方では長期的には自分自身をも滅ぼしてしまうことを考えられる人。


いくら最高と呼ばれる大学の大学院で博士になっても、
そのことが分らないのでは、それを知っていてもコントロールできない人もふくめて(もちろん自分は博士でも何でもないけれど自分もふくめて)、反価値の有害なことをしている人は愚かとしかいいようがないと思う。過去に起きたことを考えてそう思う。


たぶん一つはタコツボの学習が原因かもしれない。せまい範囲だけしか知らないからそれが絶対だと思い込んでいる。相対化できないからだまされてしまう。


理論や真理は人間が経験から構成した極めて相対的なものだということ。
かなり不勉強だけど、ある範囲でニュートンの力学は有効だが、
ある範囲を超えると誤差が大きくなってしまってニュートンの力学では有効ではなくなってしまうように(だからその範囲からアインシュタイン相対性理論を使うという話だった)、
教育学の理論もある範囲で妥当だがある範囲や相手では有用ではないということが起きてくるように思われる。ただしより普遍性の高い理論や真理というものはあると思います。教育学だったらより多くの人に当てはまる理論や真理。だから真理の探求とは極めて重要だと思います。人間が構成する法・理論・真理は経済。やはり自分は法の探求に興味があります。法によって人に依らざれです。


大事なことはどこまでも
はじめから終わりまで相対的だが真理の探究は大切だということ。


科学的な理論や真理はどこまでも仮説であり、あとからよりより仮説にかわるかもしれないです。それでも理論や真理を求めて、それを使っていくことは大切だと思う。例えば教材は身近なものから遠くなものへとなるように順番が原則、配列されているなど。多くの国の教育で当たり前かもしれないけれど身近なものから概念が構成されるように教材の順番が決まっていると思う。日本の社会科だったら自分の住んでいる町から学習がはじまる。それは遠くのことから配列するよりも、こういう順番のほうが多くの場合より経済だから。しかし例外はあるかもしれないです。それが相対的だということだと思います。原則そう順番を考えたほうがいいかもしれないが、状況次第ではそうではないこともあるというのが現実だと思います。


少なくとも人類の真剣な真理の開かれた科学的探究は、ちっぽけな国や偏見に満ち溢れた一個人を超えていると思う(僕もこれに続こう)。というか真の科学的思考が大切なんだと思う。これが今の結論。相対思考、関係思考、システム思考。思考停止に陥らないこと。



「たぶん一つはタコツボの学習が原因かもしれない。せまい範囲だけしか知らないからそれが絶対だと思い込んでいる。相対化できないからだまされてしまう。」

これは的を得ていると思う。
狭い世界に閉じているから思考停止に陥ってしまう。
つまり科学的ではない。心を開こう。