中学生高校生にこそ良書が必要だと思う。
講談社ブルーバックスや岩波ジュニア文庫などの名著が各教室にあるべきだと思う。こういった素晴らしい本以上に学ぶことの喜びを教えてくれる授業なんてあるかな。比較の問題なので、もしそれ以上のことができないならまず本を読ませたほうがいいし、そうじゃなくても、そういった本物の名著に出会わせてあげるのが大人の役割だと思う。このように思ったことがある。本当に素晴らしい本たちに出会った時に、教科書の薄っぺらな知識だけで、これらを読まないで知らないまま死んでいくなんて残念過ぎると思った。あの教科書で学ぶことの深い喜びが分かるわけないと思います。あの中学校の教科書に沿った教育で学ぶことが大好きになった人ってどれくらいいるのかな。そういうチャンスがないまま学校教育が終わっていくなんて残念過ぎる。


学校図書館、学級図書、ほぼ大人の選択から構成されるものです。子どもたちの成長のために、どのような環境でどのように子どもたちを育てるのか、それを考えて実現するのが大人の役割です。



書物がない家は魂がないのと同じと誰かが言っていたけれど、
書物がない教室は魂がないと同じかもしれませんと中学校の教室を見て僕は前に思いました。貧困。本がある家のほうが本を読む子が育ち易いのと同じで極めて単純なことだと思うけどなあ。劣悪な環境からは、それに応じた結果しかないんじゃない?


もう一度ナンシーアトウェルやクリストバニの中学校や高校の教室環境を考えると本当に恵まれているなあと思う。読書や作文ができるだけで問題が解決するわけではないけれど…。まともな本を読まないでどうやって市民として政治経済などの問題を考える思考力がつくのかなあ。ブッククラブでも探究学習でも何でもいいから社会科学や歴史学などの優れた本を読む経験って中学生や高校生に絶対に必要なことだと思う。それを偶然にまかせちゃダメだと思う。公教育がやるべきこと。今はほとんど偶然にまかせている。


塾で働いている時に中学校の社会科の教科書を読んだことを思い出します。5年前くらいだからそんなに変わっていないと思う。歴史なんて薄っぺらな通史をなんでだらだら繰り返すのかなって思う(この通史を高校でも繰り返すでしょう。)。あれが何になる。あんなの始まりに過ぎないです。きっかけに過ぎない。なぜそれで終わっちゃうの。何で通史を暗記するの?それが何になるの。通史や教科書って何のためにあるの?探究学習の重要な問いみたいに、それがその人の生き方や人生に繋がらないとあまり意味ないんじゃない。あんなの土日に読んでこいでいいと思います。もう少し丁寧に下地作りをしてもいい。そうしたとしても通史で全部時間を使っちゃダメですよ。その上で一つの時代だけでもその人なりに問題意識をもって、まともな本や一次資料を読んで書く経験をさせたほうがいい。一斉に同じ本を扱っても、ブッククラブみたいに制限した複数の本から選ばせてもいいと思う。あそこから深まらないで終わってしまうことに問題があると思う。大学に行くまえに経験するべきことじゃない?こういった経験もなく大学で学びたいことなんてどうやって選ぶの。選ぶための溜めがない。



中高の歴史の授業は一秒も受けなくてよかった。自分で読んだほうがよほどいいからです。当時から思っていたこと。卒業や単位以外のために何の意味があるのだろうという授業がいっぱいあった。高校で最もためになったのはブラインドタッチを練習したパソコンの授業だと今でも思う。それに音楽を選択していたから、譜面を読めることが少し今役に立っている。