「教育の成果は、十年後、二十年後、いや三十年後、五十年後、百年後に出る。長い目で見ていくことが大事です。
 教師という詩ごとは、なぜ尊いのか――それは、世界の未来を担う仕事だからです。次代の一切が、皆さんの双肩にかかっているからです。どうか教師として、その誇りをもって、教育技術の習得に励んでください」『新・人間革命』「若芽四十六」聖教新聞2013/12/14


何を優先するのか長期的な展望からしかより正しい解は出てこないと思う。
読書教育の成果も本当のところは長期的にしかわからない。
でも僕が独りでやったわけではないけれど
(もともとよく読む子の助けにはなっていると思う)、
突き抜けて読書している子の言語力が全然違うというのは、
6,7年間子どもたちと一緒にいてよくわかる。振り返る時の洞察の深さが全然違う。
植物を観察させて書かせても、本を読んで書かせても、同じように大きく違う。
読まない子が読むようになってきた場合は1学期の終わりから二学期に少しずつ、3学期くらいに振り返りなどの作文に読書の積み重ねが顕著に現れてくることも観察してきました。それでも時間がかかる。思考力の向上をある程度、一年間でも見れる。その積み重ねにどのような成果があるのかは長期的にしかわからない。




牧口先生が言われるように医者には医者の専門性があって、その技術があると信じることができるから、ある程度安心してまかせることができる。教育でも当たり前だけど同じこと。ファシリテーションは技術と言われるけれど、専門の技術や知識こそが教師を教師たらしめること。


祈って前に進もう。


自分は金八先生とかあいだみつをみたいな教師というか、あいだみつをは教師じゃないけれど大人像、教師像が好きじゃないということがよりわかってきました。あいだみつをも金八先生も決して嫌いではないし最初は好印象だったのですが、年々より好きではなくなってきました。決して嫌いではないと思ったけれど、いろいろ理由があって、冷静に考えるとむしろ嫌かもしれない。