今日も晩酌セットを注文して熱燗を飲んでいたら隣の客が仕事おさめだと言っていた。
生まれてはじめて仕事納めということを感じた。仕事が終わっても仕事という感じだったからかな。どうだったのか。仕事納めという感じがしなくて。



よく考えたら目指すべき児童像から話し合って、考えをシェアーして、しかも偉い力のある人に相談して、さらに自分で案を作って、学年でシェアーして意見をもらって、また修正したのだけど…。


そのプロセスを振り返るとその偉い力の相談したというプロセスを大きくて、結局、本時案の周辺も一緒に大きく変わるんだということを思いました。



校内研究で特に教科が決まっているときは講師(学者レベルな感じの人)がいて、結局その人の提案のお手伝いをするという感じにどうしてもなるのかなあということを思いました。教育はある側面は実験です。真剣な実験ですが…。


だから一番の大事なのはその力ある偉いの考えを理解することなのかあと思いました。その話を詳しく聞くまでの教材研究は話し合いがあることには意味があるのだけど…。



理解とその制限の中で、また小さい提案もあるかもしれない。



これは仕事だから、できるほうがいいにきまっている。


自分が個人的に研究していることはあるけれど、それはまた別の話。