『大学の創立者 福沢諭吉』から一部抜粋
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 みなさんは、本当に「偉い人」とは、どんな人だと思いますか?
 世の中では、いまだに有名人や人気のある人、お金持ちや位のある人などが「偉い人」として注目されています。
 でも本当にそうでしょうか?
 すでに、140年以上も前に、福沢諭吉という大教育者は、「偉い人」とは「学ぶ人(学問する人)」であると宣言しました。
 今回は、この福沢諭吉と語り合うような思いで、人間の「偉さ」と「学ぶ」ことの意義をいっしょに考えていきましょう!


 福沢諭吉の名前を初めて聞いたという人も、その顔はどこかで見たことがあるかもしれません。今の一万円札に描かれている人物です。
 日本を代表する私立大学である慶応大学を創立しました。
 「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」
 これは、日本が江戸時代から明治時代に変わった直後に、福沢諭吉が書いた『学問のすすめ』の始まりの言葉です。この本は、当時、日本中の十人に一人が読んだともいわれ、小学校の教科書としても使われました。
 なぜ、諭吉はこのようなことを書き、それが、どうして、多くの人の心をつかんだのでしょうか。
 それまでの江戸時代には、「士農工商」という身分制度があり、身分の上下が決められていました。生まれた時から家の階級にしばられ、差別されていたのです。
 明治になって、みんなが平等に生きていく時代が始まりました。しかし、人の心はなかなか変わりません。
 そのなかで、諭吉は「学問のすすめ」を通して、みんなに、はげましを送っていったのです。
 この本は、今まで”学問”したことのない人でも読めるよう、やさしい言葉で書かれており、多くの人が学び始めるきっかけとなりました。
 どんな人でも勉強すれば偉くなって、人々の幸福のため、社会の発展のため、つくしていける。福沢諭吉は、そういう時代を願って、教育に力を注いでいったのです。


 みんなに学問をすすめるくらいだから、きっと諭吉は子どもころから勉強が大好きで、頭がよかったんだろうなと、思う人がいるかもしれません。
 でも、じつは、諭吉少年は、勉強がだいきらいだったんです。
 福沢諭吉は、1835年、5人きょうだいの末っ子として、お父さんの仕事先だった大阪で生まれました。
 お父さんは九州の中津藩(今の大分県)に仕える武士でした。まじめで、学問が好きで、すぐれた人でしたが、階級が低かったので地位が上がらず、家は貧しかった。そのうえ、諭吉が1歳の時、お父さんは病気で亡くなり、一家は中津へ帰ることになりました。
 しかし、言葉づかいなども違って、引越し先でのくらしになじめません。友だちができず、木登りや水泳も苦手でした。手先が器用で家の手伝いをよくしましたが、本を読むのが大きらいでした。
 そんな諭吉少年にお母さんは、お父さんが亡くなる前に「勉強して立派になってほしい」と願っていたことを聞かせたこともありました。
 ようやく学校に通うようになったのは14歳ごろ、今でいう中学生のころです。まわりは自分より年下の子たちばかり。しかし、諭吉は、負けじ魂を燃やして、むちゅうで勉強しました。やってみるとおもしろくなり、みんながとちゅうで投げ出してしまう、15巻もある中国の歴史の本を、11回も読み返したといいます。
 このねばり強さで、みんなに追いつくだけでなく、だれにも負けない力をつけていったのです。
 勉強は苦手だなあ、好きな科目がないなあと思っている人も、心を決めてまず一つ、じっくり挑戦してみると、必ずわかるようになります。そうすれば、がんばることが楽しくなる。


 江戸時代の日本が交流していた西洋の国は、オランダだけでした。そのため、福沢諭吉は19歳で長崎へ行ってオランダ語を学び、西洋の学問をどんどん吸収していきました。
 その後、大阪の緒方洪庵のという有名な学者のもと、「適塾」で猛勉強しました。そこには、日本中から最新の学問を求める青年が集まり、みんな時間をおしんで学びぬいたのです。
 そうして力をつけ、23歳で江戸(現在の東京)へ出て、オランダ語の塾を開きました。
 諭吉は、ある日、外国との貿易が少しずつ始まった横浜に行きました。ところが、出会った外国人に話しかけても言葉が通じない。店にかかる外国語のかんばんも読めない。
 それもそのはず、見るもの聞くもの、オランダ語ではなく、英語であふれていたのです。すでに時代は変わり、今まで勉強してきたことが役に立たない。大きな大きなショックでした。
 けれども、くよくよと落ちこんでいる諭吉青年ではありませんでした。
 ”こんどは英語の勉強だ!”――横浜から帰った翌日から、さっそく英語を学び始めたのです。
 大変な時に負けない。カベにぶつかったら、もっと力を出して乗りこえる。この勇気の心にこそ、希望の虹はかがやきます。
 そうして勉強していくと、諭吉は英語がオランダ語に似ていることに気づき、語学の力をみがきました。
 「苦労して学んだことは、むだにはならない。必ず役に立つ」
 その後、諭吉は、江戸幕府使節団としてアメリカやヨーロッパへ行き、進んだ文化を学びに学びました。そして、みがき、きたえた英知の力をはっきして、時代を動かしていったのです。


 1868年、江戸時代が終わり、明治時代になった年のこと。新しい政府の軍隊と、反対する人たちとの間に戦いが始まりました。
 この時、福沢諭吉は、自ら創立した慶応義塾(現在の慶応大学)で、経済学の授業をしていました。
 ドカーン、ドドドーン!
 遠くのほうで、大砲の音がひびきました。しかし諭吉は、まったく動ずることなく、授業を続けました。心にはゆるぎない信念が燃えていました。
 「ペンは剣よりも強し」
 学問の力は、武器の力よりも強い。新しい時代を開く力は、断じて学問であり、教育である、と。
 慶応大学の図書館のステンドグラスには、今でも、この言葉がラテン語で残されています。
 勉強する人が、偉い人です。
 努力する人が、勝利者です。
 その人には、だれにもかなわない。
 勉強は、いつでも、どこでも始められます。だれからでも、何からでも学ぶことができます。学んだことは、すべていかしていくことができます。
 「学」は、栄光と勝利の道です。
 さあ、きょうから、今から、偉大な学びの道を歩み始めよう!
 一歩また一歩、一日また一日、朗らかな負けじ魂で!
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