レヴィナスの愛の現象学
再読中。はじめのほうが教育論で、教育とは魚を与えるのではなくて、魚のつり方を教えることだという比喩にまた出会う。明日は社会科で研究授業なのですが、自分が何を大切にしているか立ち位置を確認できてよかったです。まだ2章でフッサール現象学について書かれているところですが、なんとも怪しい感じの人です、レヴィナス。でも理解したいと思わせる不思議な魅力があることも確かです。レヴィナスの物の二つの見方からもカントの「物」と「物自体」、ブーバーの「我−汝」「我−それ」など思い出しました。あまり好きな人ではないけれど、内田樹さんの本は面白いです。この本の続きも『倫理と無限』も楽しみです。
「汝殺すなかれ」のところはショーペンハウワーを思い出した。ショーペンハウワーなら消極的な善でしかないと一蹴するかもしれない。

意味の過剰性がテキストの物質性や具体性から生起するというところも印象に残っています。言葉がもつ音の響き、具体性には意味の過剰性がある。たんなる記号を超えるということかな。日蓮が発明した「南無妙法蓮華経」の音の響きが好きで、それと似ているって思う。否定を重ねていって何事かメッセージを表すというところは仏典に通じるところがあると思う。