政治についてもたまに書きたくなるけれど、逆に本当に書く、ニュートラるそれは無理かもしれないけれど(かもじゃなくてニュートラルはあり得ない)、書く必要があると思う。見られないところで政治的なことを書いても意味がないのかもしれない。僕の職業自体がある意味、政治的なものだと思う。人がほんとうの賢明になったら損をする人がいる。そして職業的に政治的に行動が制限されている。


貧困、病について忘れることはできない。生老病死


でもただの損得を超えていかなければいけないことは間違いないと思う。根本的に真に大事なことだ。



政治のこともブログには職業的に書きづらい。



と思ったけれど、特定の政党を支持するようなことでなければいいのかな…。法律を学ばないと。ただ特定の政党を否定したり肯定したりしない政治について語ることは可能か。不可能だと思う。特定の政治的な意見を述べた瞬間に特定の政党を相対的に部分的に支持することになる。


ただこういったことは政治活動になるのだろうか。それこそ弁護士を目指していたやつに聴いてみたいし、自分も調べてみたい。どこまでやっても問題ないのだろうか。こういった法律的な知識に乏しいのだ。別に選挙活動しなければ何をやってもいいのだろうか。どこまで選挙活動なんだろう。こういった問題に対する具体的には法律的な知識が自分には残念ながらない。これは自分の真正な問題だ。こういうのをオーセンティックという。教育の文脈のターム。


正直、教育に関する政策で、現場の経験もなく、知識もなく、ただの思いつきの政策で、昔(被教育者としても)も今(教育者として)も不快な思いさせられていることもあるので、心の底から怒りを覚えているのだけど、そのことにもっと具体的に書きたい。それは事実も思いについてもです。



結局、教育、科学を真の意味で肯定すること自体がこの地球上の複数の政党を否定していると思います。それは政治的なことだと思うけれど。その延長戦でもっと具体的に言いたいことがあるんだけど。知育の延長に何があるのか考えたほうがいい(僕は体育も心の底から大事だと思っている)。



ちゃんと法律を調べよう。
組合があるということは、憲法や法律に基づいて、何か主張することは法の範囲ない間違いない。それに人権レベルで何かを言うことも憲法、法律レベルで間違いない。ブログでどこまで書いていいのかという問いでちょっと調べ学習してみようかな。してみよう。