個人情報

このブログで職業上の秘密の個人を特定できる情報を書いたことは一切ない。
書いている人を特定することもここに書いてあることだけからは不可能です。


推定できる情報と断定できる情報は違う。推測はどこまでも推測です。ただ断定できる情報もこの世には存在する。
ある研修では、推定できる情報もだめだと解釈できることをいうけれど、そんなこと言ったら、どんなことが言えるのだろうかという問題が生じる(逆に言えば教員の人権問題はその狭間でどうなるの?〜これは法律の慣習の微妙な線引きになるところなのかもしれない〜)。極論、教員はブログは一切書けないかもしれない。教員が語れば、その語ったことからどんなことでも特定の個人を推測すること可能だからだ。それは国語の物語の小学校のお勉強で習うことでもある。推論とは妥当であるかとう問題があるが、どんなことからも無理矢理、推測することが可能だって思ったけれど、それはシャーロックホームズみたいに情報を総合させないと無理か…。それでも推測はどこまでも推測か。



秘密を「識別」(この「識別」という言葉は法的に使われている言葉ですが、推測や推定とは意味が違う。物事の相違を見分けるという意味の言葉)できる情報が一切ないからいいのか。このブログからは不可能だ。職業が識別できてしまうから、政治に関することはあまり語らないほうがいいと思うけれど、そこのところも法律の認識が足りないです。少し真面目に調べてみたい。無知の知。知らないことばかりさ。



そうだから分かるまで、またはその知識のこと以外で、政治について語るの控えようかな。そのために知識が必要。スペンサーの二育論。振り返りというジャンルの中に日記というジャンルがあるように、知育の中に徳育があって、知育のない徳育なんてありえないって僕は今でも思います。知育のないって徳育って存在するでしょうか。知育なしの徳育って証明できますか。証明できなければ、知徳体の三分類って間違っていることになります。徳育というのは知育の中にしかあり得ません。誰か合理的な説明できますか。



もともと知識的に、スペンサーの二育論を三育論としてゆがめて、またはただしく認識する能力がなかったのかして誤って流布してきた日本の歴史を考える。