敬愛する人のつぶやき

こんなに人が死んだのに、
祈りなんかなんの意味があるんだ。
宗教なんか、経典なんか、なんの意味があるんだ。
そういう絶望のなかから、
紡ぎ出された祈りしか、
信仰しか、
生きてはいない。
絶望のなかから、1人1人が、自分の言葉で、
一から、自分の信仰を創り上げていくこと。
シモーヌ・ヴェイユの祈りみたいなものかな。
私は祈る。神は存在しないと思いながら、存在しない神に祈る。
という、ヴェイユの祈り。

池田名誉会長が、テへラニアン対談のなかで、
「宗教的精神」というのは、2つあると。

一つは、地球の反対側の、出会うことのない人が不幸に見舞われたときに、その人の悲しみに同苦出来る精神

もう一つは、祈りが叶わないにもかかわらず、祈ることができる精神。ナチスに迫害を受けたティリッヒの言葉を名誉会長はひいて、
「にもかかわらず」の祈りが、真の宗教的精神であると。

明るくにぎやかな場所が、居場所にならない子どもたちがいるということを、もっと考えて欲しい。
1人つまらなさそうにしている子に、みんなと遊ぼうよ、と呼びかけていいのか悪いのか、深く考えて欲しい。

ディスポーニビリテというヤツです。
障がい者とともにいるひとが、いろんなことができるようになる、
つまり、自分の「へこみ」が、相手の可能性を引き出す。

こちらが、元気いっぱいやったら、相手の可能性はつみとられてしまう。

仏法は、勝負ではないです。
日蓮の「仏法は勝負」ということばが、
しばしば、日蓮本来の意味と正反対に使われています。
不景気で、商店街の店が次々と廃業していくなか、
うちの店だけが繁盛してます。
仏法は勝負、がんばりまっせ!
うーん、それはそれでいいかもしれないのですが、
御書の文脈は、それとは正反対です。
そのような、
戦いに勝って、
上に上っていくという、
「勝ち組の成功物語」を「打ち負かす」のが、
「仏法は勝負」ということなんです。
日蓮は、
領地が増えた勝利だ!
領地が減った敗北だ!
と、
論功行賞を挙げることが勝利という価値観(当時は、封建主義確立時代です)
をもつ四条金吾に対して、
そのようなものは、世間的結果(領地や身分)を、お上からいただいてありがたいという、「賞罰」という価値観だ、として叱るわけです。
勝ち負けという考えをやめること。
それが、本当の勝利です。
具体的に、文脈を見たらすぐわかります。
「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり」
この有名な文章に何が続くかを見てください。
この後、何行何行も、日蓮が果てしなく記すのは、
日本の天皇たち、エラい人たちの、血で血を洗う内乱の歴史です。
これが、勝ち負けの世界、「王法」「賞罰」の世界です。
そして、最後に、日蓮はぽつりと語ります。
「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」
もう、勝利とか、戦いとか、やめませんか、というわけですよね。

「自分に勝つ」というのは、「他人に勝つ」よりも、
ある意味、まだましかもしれません。

しかし、そこにひそんでいる危険性も、きちんと見据えねばなりません。
つまり、「社会性の欠如」です。

「要は、浅薄な「価値観」ならぬ、「勝ち観」では、人間は最後は「死」というものに負けてしまうということです。」


「死に負けるというのは具体的にはどういうことですか?」


「全員が死ぬということですよ。だから、単純な勝ち負けという価値観ならば、
全員が、負けになるわけです。

老病死に打ち勝つというのは、いつまでも若い、いつまでも健康、いつまでも死なないということではないですね。

仏教のスタートが、普通の人々が、自分も老病死が免れることはないのに、老人や病人や死人を忌避して、ああはなりたくないと思う、その「若さの傲慢」「健康の傲慢」「生きていることの傲慢」を、批判したということです。」


自分の勉強と思索のためにメモ。
深い…。デリダ脱構築をバカにする人がいたけれど、これはこれでとても大事な考え方、方法の一つだと思う。自分、きちんと理解できているかあやしいけれど…。脱構築は数学や哲学の演繹法や原理的思考、経験科学の帰納法と違う考え方であり方法。デリダブッダ日蓮は直接の縁はなかったけれど、同じ思考法を使っていると言えるらしい。僕はなんとなくあやしい感じに理解している。またちゃんと勉強したい。


このTさんのつぶやきというか、
投稿にいつもはっとします。本当にありがとうございます。