デリダ 脱構築と正義 (講談社学術文庫)

これは現代思想の冒険というシリーズにあった本で読んだことがありました。
17年も前の本。今読んでも難しい。


デリダ脱構築はやはり一つの読み方、考え方で、独特に意義があると思った。
プラトンからはじまる形而上学(哲学)、プラトンのテキストには、ソクラテス形而上学を構築しようとするなかに、その形而上学に反する存在がある。それを象徴する言葉がパルマコン(薬)。薬は毒にもなるという両義性をもっている。


デリダは哲学や形而上学をただ否定しているわけではない。形而上学の中にある意味の決定不可能性を明らかにし、その決定不可能性を決定している。


パロール話し言葉)とエクリチュール(書き言葉)の二項対立、パロールの優位。しかし、パロールの中にエクリチュールが存在している。



デリダの半生が第一章に描かれていて興味深かった。


言語哲学


第三章の途中。また読もう。


ソクラテスもイエスも書き言葉を残さなかった。ブッダも残さなかった。本当に不思議な問題。そういう根源的なことを問題にしているプラトンデリダ



これはたぶんフランクスミスとも繋がっている。いつまでもフォニックスのお勉強をしているのはナンセンスだということ(でも音読、朗読は大事だ。朗読というパフォーマンスの中にあらわれるテキストへの理解)。

デリダに対して「読むことの専門家」だという高橋哲哉先生の説明が印象的です。



なるほど、パルマコンか。
関係によって意味が同じ言葉でも正反対になる。誰が言うかによって同じことを言っても意味がまったく違ってくる。言語の多義性とは、そういうことだ。


変毒為薬か。