脱構築も結局、テキストを丹念に批判して分かるという意味では帰納法か。
脱構築という読み方は丹念にテキストを読む延長にある。
プラトンのテキストの中に脱構築の契機がある。



思考法は大きく分けると演繹法帰納法しかないかな。二つに分類できる(この分類も個々の事例から共通する要素を見つけて仲間集めするという意味では帰納法)。


思考ツールの
ベン図の比較するとか、推論するとか、全部、演繹と帰納の部分だ。


脱構築帰納の部分。



教育は知育(徳育は知育の中にある。なぜなら知育なき徳育はないからだ。道徳の教科書にも、指導書にも知育なき徳育は存在しない。あるならば例証してほしい。)と体育にと二育論に分類することが論理的に妥当だろうという考え方と似ている。論理的におかしな分類をしているのに、それでよしとしている。スペンサーと牧口常三郎がまだ生きているよ。