創価教育学体系概論 再読

2013年9月24日 3:46

読書 再読 創価教育学体系概論

「将来の教育は、教材の価値的配列、その論理的配列、それの学理的運用によりて一大変革をうながし、学習の労力・年限・費用を、少なくとも半減することができる」『創価教育学体系概論』46項

これはある程度できている。学者先生がその役割の多くを担っている。またこれからさらに磨いていけるところでもあると思う。学理的運用の実践は教師の役割、教師も教材の配列を考える。

教材論
「第四期 生活環境そのままを直ちに主教材となし、教科書を副とする時代」『創価教育学体系概論』
たぶんこの時代に入りつつあると思う。リーディング・ワークショップなんか同じことだと思います。本物の書物が読むことの主教材となる。時代が牧口先生にやっと追い付いてきたという感じなのかもしれない。

「第三期 実物標本を一つ一つ教室へ持ち出して、教科書の説明に資した時代」
今の学校は第三期か第二期にあるかもしれない。



「小学から大学まで真正に知識しているもの、はたして幾何ぞ。知育に何らの縁もなく、価値もなき、他人の構成した知識すなわち虚妄な概念を、ノートしているのみではないか。鸚鵡に言語を教えたと何の差があろう。知育に基がない徳育はありうるか。
古来今来、『愚を賢化』する以外に、何らの方法も講じ得ないではないか。それで、徳育の実がどこにあるか。知育以外の徳育があるならば、ねがわくば見せてもらいたい。
将来の教育は、知育の蔑視や軽減ではなくて、あくまで知育の増進にある。その徹底的改善にあり。徳育が知育の基礎の上に建たねばならぬことは、あたかも、知育が体育の基礎の上に立たねばならぬと同様である。徳育は、知育の基礎の上に、美育・利育と並行して、価値創造の作用として施されなければならぬ。」『創価教育学体系』18項



52項の教育方法改造論、ここも大切。

60項の道徳教育のところ。
18項の話をもう少し具体的に書いているところ。本当に善悪を識別して、たしかに知識が欠乏していなければ多くの人は愚かなことや不幸なことを自ら進んではしないだろう。本当に善悪を識別して、必要な知識があれば多くの人は自律すると思います。自分もたくさんの愚かなことや不幸なことをしてきたけれど、本当に善悪を識別できて十分な知識があれば多くの苦しみや不幸、愚かなことを避けられたと思う。本物の賢者なら非道徳的なLOSE−LOSEの道を決して歩まないでしょう。自分自身についてももう少し振り返りたくなります。


64項の読み書きの教育のところも大切。認知科学のアナロジーの研究やRWやWWの考え方や実践に繋がっている。



「本物の知者=知識人だったらならば、戦前戦中(いや、現在とても然りですが)日本の学問水準が到底『知育偏重』の水位まで上昇しておらず、あべこべに『知育偏軽』『知識貧弱』(従って『道徳偏軽』『道徳貧弱』)の海底面に釘付けされたままでいることを、看過誤認することは無かったのです。本物のなかの、すぐれて本物の知識人だった牧口の眼には、日本の教育現実はどんなに暗澹たる光景(げんに彼は日本を『教育中毒』と呼んでいる)として映ったか。七十年後の今日とて同じです。
小学生が、自分の気に食わぬ子をいじめて平気でいる。中学生が、公園のベンチに寝ている老人を殴り殺す。高校生が、酒や麻薬や性暴力その他の犯罪をおかす。――これらは知育偏重・徳育偏軽が原因で生起することなのですか。すべては知的に貧弱劣悪だから起こると理路整然と分析し論証してくれる牧口『二育説』および『日本人知識貧弱説』に、賛成せざるを得ないではありませんか。俗説世論に逆らってでも、いま、『知育偏軽』の教育現実に立ち向かおうではありませんか。
一見迂り道のようにみえても、知識=知性を最大限に働かせて人類普遍の真理を獲得することこそ却って幸福実現への捷道となる、との見通しに立つ牧口教育理論は、今なお正しく新しいのです。」斎藤正二

体育よりも知育がさらに人間には基礎かもしれないって今思った。


知育のない体育もないしってたまに思っていた。