はじめに子どもありき

はじめに子どもありき―教育実践の基本

はじめに子どもありき―教育実践の基本

はじめに子どもありき 続 基本原理と実践

はじめに子どもありき 続 基本原理と実践

この内容と直接は関係ないかもしれないけれど、
読んでいて思い出したのが、
ナンシー・アトウェルと池田先生の教育論。
二人とも靴ひもの結び方を教えるという場面にどう教育があるべきかという姿を重ねていた。

靴ひもの結び方は教えるが、靴ひもを結ぶ練習をして、靴ひもを結べるようになるのは、子どもたち。
このシンプルな比喩には、教えるとか教えないとか、教えるのではなくて支援するのだいう二項対立を超えているものがある。学び方を教える。学び方を練習する。



「させる」という言葉について。
この言葉が僕は嫌だったのですが、最近は気にせずに使っています。
学校は一側面は強制の場所であると割り切っている部分もあるけれど、
平野さんが指摘するこの言葉を多用することに対する傲慢さも分かる。
本当に子どもが学校を拒否したならば、
強制することなんてできない、させることはできないのだ。
暴力や恐怖で無理矢理やらせたとしても、心まで従わせることはできない。
ならば、この言葉は控えたほうがいいかもしれないと思った。




導入
教師がひいた路線にのせるような導入ではなく、子どもたちは学習の価値と必要性を認識するなりに納得できなりできる導入であるべきだという。
チャイムと同時に子どもが何の支持もなく学び始める教室がある。
それを思い出しました。
単元の中で、自由。子どもはその単元でどんな学習内容を学ぶのか前もって見通しをもっている。それでチャイムがなれば自分のタイミングで学習をはじめる。そんな教室もある。導入という導入もない。



授業
この批判されているただ黒板を写すだけの授業を、オウムに言葉を教えてるのと何が違うのだろうと牧口常三郎は批判していた。僕はきちんとノートだけは、わりととるほうだったので、間違いないと思う。こういう授業を僕は子ども時代にたくさん経験してきた(特に中学と高校)。



個別学習
イエナプランで大事だと指摘されていることに重なる。