Kさん

社会には「圧」がかかっていて(正確には、人びとが、「圧」をかけ、かけられ合っている)、人は、しらずしらずのうちに、「みんなと同じであること」に、幸福と快楽を見いだすようになる。隣人を模倣し、集団がかぎりなく均質化することをのぞむ。そこに喜びを感じる人間のことを、ニーチェは「奴隷」といったのだけれど、自身の「奴隷さ」を認識する知性と、それをうちやぶる勇気なくして、桜梅桃李に生きることはできない。個性をだすことは、ある意味、怖い。

みんなと違うっていうのは勇気がいることだと、確かに思う。多くの小学校の先生は、やはり、子どもたちが、みんな一緒でそろっていることを心の奥底で求めているのか、そんなこと一般化できないのか(僕はまだ同じようにできないと、そろっていないとイライラしてしまうところが自分の中にある。と同時にそれを別にそろっていなくてもよいと、その「みんなと同じであること」求める気持ちを否定する心もある。)。多くの保護者の方たちも、他の子と同じようにできることを望み、同じようにできないことを恐れているように思う。だけど、そういった、みんな一緒じゃなきゃいけない、そろっていないといけないというのが、子どもの心を傷つけていると言った通級の先生もいて、その言われていることもよくわかる。バラバラで一緒というインドの言葉を思い出します。



努力はむくわれる、という発想は、むくわれないのは、努力していないからだ、という主張の裏がえしである。そして、この発想は、「すべての人には、努力する能力が等しくそなわっている」という命題を前提とする。はたして、そうだろうか?
わたしは、「なにについて」「どのように」努力できるか、というのは、才能と育ち(出身の属性要因)によって、おおかた決まってしまうと感じている。「勉強」を例にとれば、勉強というくだらないことに、人生の限られたリソースを惜しみなくそそぐことが「できる」というのは、一種の「狂気」であって、ある民族からすれば、それは、ばかばかしいものとうつるだろう(たとえば、縄文人が、机にかじりついて勉強している現代人、読書をしている現代人をみたら、気が狂っていると思うだろう)。そんな狂気に自己投資できるというのは、特殊な才能であって、けっして、一般化、普遍化できるものではない。
われわれの社会は、そんな狂気をいかんなく発現できる人を、「あの人は賢い」といって、たたえているのだから、日本社会全体が、狂気に酔っているといえる。フーコーなら、そういうことを言うと思う。
桜梅桃李は、この「狂気」と特別な関係にある。真の意味での桜梅桃李の人は、自覚的であれ、無自覚的であれ、狂気に適切に応じられる。もっといえば、狂気から醒めることもできるだろう。
日蓮は、鎌倉時代の大衆の狂気を、客観視していたように思う。釈尊の真意でないものを、あたかも真意であるかのようにあつかい、あがめ、仏法を釈尊にもとめない大衆の姿勢は、日蓮には、狂気とうつったことだろう。それで、日蓮は、時代時代によって変化する「狂気」に左右されない、個人の資質、つまり、努力できるとか、できないとかに可能なかぎり影響されない、仏道修行を考案した。それが、南無妙法蓮華経の唱題である。

自己のテクノロジーっていうのをテーマとしたフーコーの本が確かあって、読んでみたいと思って十年くらい。結局読めていない。

確かに人間の営みは多様で、読書や勉強ばかりではない。手を使って、体を使った物作りの職人さんもいるし、いろいろな生業の人がいる。僕の求める読書教育は狂気を押し付けているのだろうか。読書には普遍的な価値がないのだろうか。本を読めるというのは特別な才能なんだろうか。LDなどの発達障害について考えると確かにそうなのかもしれない。すべての人に同じように求めることではないかもしれないのか。ただLDでも、障害のあるその子に読むことの練習がいらないとは、今の特別支援教育でも考えていないようです。少なくとも読書がすべてみたいにならないようにしたい。

それに読むというのはとても広い行為だ。優れた読み手はすべてを読むのだ。文字だけではない、絵も読む、ホームズみたいに観察して推理をすることも、広くいえば読むという行為になる。社会科の理科の読み書きも大事だ。


少なくとも、勉強がすべて、学問がすべてみたいにはならないようにしたい。いろいろな子がいるから。


僕が読書で救われたことを、みんなに押し付けることは少なくともできないか。読書の意義はそれぞれの人生によって、みんな違うから。

前々投稿のつづき。
ニーチェがいった「奴隷」という人びとは、オルテガのいう「大衆」によくにている。みんなと同じであることに安心感をおぼえ、そこに安住する人びとである。彼らは、異質者をみつけては、いじめと排除を繰り返す。しかし、ニーチェの「奴隷」と、オルテガの「大衆」には、ちがいもある。オルテガのいう「大衆」は、権威にうったえかけず、おとなしく、自分が知的に高度だ(あるいは、高い境涯にいる)と思いあがっている。「ありのまま」に満足し、自分の外部にあるものを必要としない。外部を理解しようともしない。これが極端になると、魯迅の「阿Q」状態となる。これは、ニーチェがいった「貴族」の特徴なのだが、「勝ち誇った自己肯定」が、社会全体に蔓延した状態のことを、オルテガは、「大衆社会」とよんだ。
この大衆社会の典型が、ドイツに、独裁政権を誕生させた。
ものいわぬ大衆は、ほうっておけば、愚かでありつづける、というのが、オルテガの結論であった。ここから突きぬけられるかどうかが、いま、問われている。


Kさんの投稿は勉強になるし、考えさせられます。「阿Q」か、どんな登場人物だったか、何回か読んだのに忘れてしまった。はっきり思い出せない。魯迅の作品で、日本人の先生についての話が一番心に残っています。