題目

題目を意味あらしめているのは、唱えるひとの心とともに、題目のシニフィアンである、というのが、わたしの持論です。

Kさん


シンプル。
自分の祈る姿勢、心を反省。


やはり後学のためにメモ

ことばには、「一意的な意味」なるものが存在すると、多くのひとが錯覚している。単語ひとつひとつに、対応する意味がある、と。「そんなものは、辞書で調べればわかるでしょ」といった感じで、だ。ところが、現実のことばは、そう単純にはできていない。
例を示そう。
「水」ということばを考えてみてほしい。このことばを聞けば、大多数の人は、H2Oの水を思い浮かべるだろう。このことばには、現実に、水という対応物がある、と考えるはずだ。しかし、実際の会話で、「水」は、かならずしも、H2Oの水を意味しない。たとえば、砂漠のまんなかで倒れているひとが、必死の形相で「水!」と言ったら、どうだろうか。その意味は、「水が飲みたい!水をください!」となる可能性がある。あるいは、水の入ったコップを机の端に置いたまま、子どもがテレビに夢中になっているとする。そこで、母親が「水!」といったら、それは「水がこぼれるから、気をつけなさい!」という意味になるかもしれない。このように、「水」といっても、状況によって、さまざまな意味になるのである。
ウィトゲンシュタインは、ことばの意味が、TPOによって、または文脈、発話者のありよう、文化、慣習、話者同士の相互の関係などによって、偶然的に決まる、ということを発見した。これを、彼はひとことで、「言葉の意味とは、言語におけるその使用である」と表現した。そして、言語のありようを「言語ゲーム」ということばでまとめた。
ことばの意味は、偶然によって決まるので、たとえば、御書についても、辞書で意味をしらべて、文法を理解して、それで、その意図がわかるようになる、ということは、基本的にはありえない。もし、日蓮のことばを疑似体験的に理解したいのであれば、日蓮が置かれていた状況(発話の対象・相手の状況をふくむ)、文化、慣習、心理などを、可能な限り知らなければならない。ひとことでいえば、日蓮の境涯に近づかなければ、日蓮のことばの意図はわからない、ということである。
まあ、そもそも、文章の意図を読みとく、などということは、不可能だ、とロラン・バルトは「作者の死」をもちだして、いったけれど、限りない近似値は努力によって得られると、わたしは思っている。なので、わたしは、そこに挑戦していく決意である。

この話の典型がTさんがよく紹介してくださった「仏法は勝負」の話。
敬愛する人のつぶやき - 日記



「虹」と「雪」のたとえは、言語が人間の認識を規定している事例として、よく引き合いにだされますね。だからこそ、言語を学ぶことに意味があるのでしょう。

このことも昔読んだことを思い出しました。言語が人間の認識を規定している。『読書と社会科学』という本のことも思い出す。概念装置の話。言葉があって、はじめて目に見えない経済現象を思考できる。言葉の不思議というか、機能。こういうことに自覚的になれるのは、大切ですし、おもしろいことです。