大人から

尊敬する人がこんなこと言っていて、
心に突き刺さった。


民主主義とはなにか。
学校どうこう語る前に、
子どもの教育どうこう語る前に、
まずは大人が真剣に向き合おう。
2人に1人しか選挙に行かない大人。
対話による合意形成ができない大人。
子供だましの応酬。
ボクらは恥ずかしくて
子どもの前に
立てなくなる。

大人からってことか。でも本当にそうだ…。



対話による合意形成っていうのは、
自分が間違っているかもしれないという前提がないと難しいと思った。
最初から私は正しいという、間違いは絶対にないという前提では、対話は難しい。



生まれてきてから、
振り返ると、
自分の考えは絶対に正しいと考える大人に
子どもの時から出会ってきて、違和感を感じてきた。
僕にはそういう前提の考えは息苦しいです。
価値観の問題なのか、根本的にいいことだと考えられないからか…。


かなり悲しいことだが、
その違和感を感じても黙っていたほうがいい、そんなことを何度も思った。



自分の考えは絶対に正しいと考えている権力者で、違う考えの人に対して言うことをきかないと、いろいろな意味で捻り潰してやる、そのような心で関わってくる人がいるし、いた。そんな国もある。


たくさんの人が言っているから、正しいという人もいる。しかし残念ながら、たくさんの人が言っていても間違っていることはよくあることだ。




反証可能性(はんしょうかのうせい、英: Falsifiability)とは、科学哲学で使われる用語で、検証されようとしている仮説が実験や観察によって反証される可能性があることを意味する。 科学哲学者のカール・ポパーが提唱。

科学の理論(仮説)の本質で、反証可能性と言われることがある。
どんな理論でも反証されて覆される可能性があるのだ。
況してや自分の経験だけから語る理論はなおさらです。



自分の記憶、理論について、
常に根拠と証拠、データなどに帰って考えていくべきだと自分は思う。







私はこれが正しいと思う。
自分はこれが正しいと思う。
考えに違いがある
(それぞれ様々なデータや視点から根拠をもっている)。
とても正常で健全なことだと思う。
まずはそれを冷静に認識できること。


そして自分の考えに間違いあるかもしれないという反証可能性の前提にたてることが僕は大事だと思う。



どんなに経験を重ねて、学問を重ねても同じだと思う。


経験にしても学問にしても、ひとりの人が知れることや経験なんてとても限られている。



歴史に残る大学者、大哲学者でさえ、間違い、誤解、勘違いをしている。
ましてや自分なんかはというところです。



これは正しいと考えている理論は間違っているかもしれないが、
証拠や根拠、データから考えることで、さらに深まりもする。また覆されることもある。