異体同心

Kさん

日蓮が「異体同心」を主張したことのすごさを、あらためて確認した。わたしたちは、このことばを、「団結」に関連づけて理解しようとするけれど、そもそも、団結という概念は、鎌倉時代にはなかった(ことばの概念はなかったが、考え方は存在していた)。わたしたちが、団結と聞いて連想する、個人の力学を組織的に目的へと集約する、という形が生まれたのは、近代になってからである。
異体同心には、もちろん、心を合わせていく、という意味もあるけれど、メインは、同心すべき同志と共有している基盤をもとに、自分がいま何をすべきかを、自立的に考え、行動する、という意味だと思う。
日蓮から、異体同心の指針を与えられた同志たちは、それぞれが、緊密な連携をとっていたわけではない。現代よりもずっと、物理的に、個々がばらばらだった。そこで求められたのは、密な連携によって、共通意識を強化し、団結を深めることより、自分の頭で考えること、だった。
それぞれが真剣に法華経にぶつかり、日蓮のことばをもとに思索した結果、自然と「同心」は生まれたのである。一糸乱れぬ統率が、異体同心のあり方だと思ったら、それは、勘違いといえる。

こんな異体同心なら、僕も快く関われる。逆に言うと、こういうあり方でないと、命の底から拒否反応があって無理かもしれない。かなり自分には切実なこと。