ユキヤナギ

「光」が噴き上がっていた。
「命」が噴き上がっていた。
「咲きほとばしる」と言うべきか、
抑えても抑えても、抑えきれない春のエネルギーが、
真っ白な「光の噴水」となって、勢いよく湧き出していた。

雪柳は「雪」であり「花」だった。「冬」であり「春」だった。
白という光の中に、春と冬が溶け込んでいた。
まるで、希望と苦悩が渾然一体になっている青春時代のように。
青春は、苦しい。悩みばかりだ。
しかし、悩みがあるから、心は育つ。
うんと悩んだ日々こそ、一番不幸だと思った日こそ、
あとから振り返ると、一番かけがえのない日々だったとわかるものだ。
だから苦しみから逃げず、苦しみの真ん中を突っきって行くことだ。
それが森を抜ける近道だからだ。
寂しければ、その寂しさを大事にすることだ。
寂しさや悲しさを、遊びなんかで、ごまかすな。使い捨てるな。
耐えて、耐えて、自分を育てる「こやし」にしていけ。
逃げたくなることもある。
でも、雪柳は動かない。
雨の日も、寒風の日も、じっと自分の場所で根を張って頑張っている。
頑張り抜いたから、みんなのほうから「きれいだねぇ」と来てくれる。
人間も、魂の根を張ったところが「自分の故郷」になる。
完全燃焼したところが、心が安らぐ「自分の居場所」になる。
  
私は、みんなにお願いした。
「お父さん、お母さんを大切に」
君たちが生まれる時、どんなに、お母さんがたいへんだったか。
あなたが大きくなるために、両親は、どんなに疲れても、眠れなくても、
大事に面倒を見てくれた。苦しい仕事にも耐えて働いてくれた。
あなたが初めて声たてて笑った時、初めて歩いた時、
どんなに両親は幸せでいっぱいになったか。
病気になったとき、どんなに、おろおろと心配したか。
感謝できる人は幸せな人だ。
雪柳は太陽への感謝を忘れない。
太陽は、いつも惜しみなく光を注いでくれた。
いつも、ありのままの自分を、そのまま受けとめ、光で包んでくれた。
だから今、雪柳は「太陽への恩返し」のように、明るく周囲を照らしている。
  
人間だって、花と同じように、光がいる。
人も、人から大事にされないと、心が枯れてしまう。
だから君が、みんなの太陽になれ。
人間だって、花と同じように、水がいる。
自分で自分を励ましたり、喜ばせたり、
心を生き生きさせないと、心は枯れてしまう。
自分で自分を励ませる人は、すてきな人だ。
人のつらさも、わかる人だ。
自分で自分を喜ばせる言葉を、強さを、賢さを! 
落ち込んだ心を、よいしょと自分で持ち上げて!
自分で自分を好きになれないと、人だって愛せない。
   
記念撮影を終えて、私は雪柳に近づき、カメラを手にした。
  
天をさして咲く花もあれば、地を向いて微笑む花もあった。
それぞれの個性が集まって、光の束になっていた。
そして雪柳は、すべての力を、ただひとつのことに傾けていた。
天から与えられた自分の生命を生ききること。
自分が種子として持っていたすべてを、表現しきること。
自分本来の姿へと開花すること。
それ以外、何も願わなかった。
ほかの花と自分を比べようなんて夢にも思わなかった。
人が自分をどう思うかなんて、どうでもよかった。
自分にできるかぎりのことをすること、それしか思わなかった。
今、だれもが個性、個性と簡単に言う。
「自分らしく生きる」と言う。
でも本当は、それは茨の道である。
みんなと同じようにしているほうが楽だからだ。
    
柳のようにしなやかな雪柳の枝に、無数の星が光っていた。
無数の宝石で飾られた王冠のようだった。
そう、自分の道を歩み抜いた人は、だれでも英雄だ。
「みんなが一等賞」なのだ。宝冠の人なのだ。
だから「自分にできないこと」ばかり数えて落ち込んだり、
文句言ってるなんて愚かだ。
「自分にも今、できること」が何かある。必ずある。
それを、やり抜く人が偉いのだ。
その人が最後は勝つ。
    
雪柳は敏感だった。だれかが通り過ぎただけの風にも揺れる。
あなたも、恥ずかしがり屋なら、そのままでいい。
無神経になり、デリカシーをなくすことが「大人になる」ことじゃない。
コンクリートみたいに固い花はない。
花は、みんな柔らかい。初々しい。傷つきやすい。
人の思いに敏感なままの、その心を一生咲かせ続ける人が、
本当に「強い」人なのだ。
    
運命は外からやってくるんじゃない。
君の心の中で毎日、育っているのだ。
毎日がつまらない時。
それは自分が、つまらない人間になっているからかもしれない。
人生をむなしく感じる時。
それは自分が、からっぽの人間になっているからかもしれない。
人生に、うんざりした時。
人生のほうが君にうんざりしたと言っているのかもしれない。
人間は結局、自分自身にふさわしい人生しか生きられない。
だから、成績は中くらいでもいい、人間が大であればいい。
頭がいいとか悪いとか、成績だけで分かるものじゃないし、
生きる上で大したことではない。
ただ、自分が「不思議だ」と思う疑問を大事に追求することだ。
そのことを考えて、考えて、考え抜くことだ。
そして、いざという時、真理と正義のためなら、
自分を犠牲にできる人になれ。
そんな人が一人でも増えた分だけ、この世は美しくなる。
    
世界のどこかに、君にしかできない使命が、君の来る日を待っている。
指折り数えて待っている。
待たれている君は、あなたは生きなければ! 
めぐりあう、その日のために!
  
輝くためには、燃えなければならない。
燃えるためには、悩みの薪がなければならない。
青春の悩みは即、光なのだ。
    
雪柳も、冬の間に積もった冷たい「雪」たちを、枝から染み込ませて今、
「花」に変えて噴き出しているのだろうか。
中国では、その名も「噴雪花」という。
「雪柳 光の王冠」池田大作

今読み直しても、好きだけど、
自己犠牲を求めているところが気になる。
自己犠牲について二種類あるというエーリッヒフロムだったかの話を思い出す。


自由からの逃走 - 日記


犠牲にまったくことなった二つのタイプがある。われわれの肉体的な自我の要求と、精神的な自我の目標とが対立抗争することがあること、すなわちじっさいに、われわれの精神的自我の統一性を確保するために肉体的自我をときに犠牲にしなければならないことがあるのは、人生の悲しむべき事実の一つである。この犠牲はけっしてその悲劇的な性質を失わないであろう。死はけっして甘美なものではない、たとえ最高の理想のためにたえしのぶばあいであっても。死は言語を絶してつらいものである。しかも死はわれわれの個性の最高の肯定であることがある。このような犠牲はファッシズムが教える「犠牲」とは根本的にことなっている。ファッシズムにあっては、犠牲は人間が自我を確保するために払わなければならない最高の値ではなく、それ自身一つの目的である。このマゾヒズム的な犠牲は生の達成をまさに生の否定、自我の滅却のうちにみている。それはファッシズムがそのあらゆる面にわたってめざすもの―個人的自我の滅却と、そのより高い力への徹底的な服従―の最高の表現にすぎない。それは自殺が生の極端の歪みであると同じように、真の犠牲の歪みである。真の犠牲は精神的統一性を求める非妥協的な願望を前程とする。それを失った人間の犠牲は、たんにその精神的な破綻をかくしているにすぎない。

フロム


「真の犠牲」か…。


自己犠牲といったらいろいろなエピソードを思い出すな。