コレクション6 真理と裁判形態 

すごく遠くに感じるけれど、仕事に近いところがふしぎ。

オイディプス王』の悲劇のもっとも基本的な特徴のひとつがあります。それは、羊飼いたちと神々との、人間たちの記憶と神々の予言とのコミュニケーションです。この呼応が悲劇の何たるかを規定し、人間の記憶と言説とが神々の偉大な予言の経験的な余白であるかのような、象徴的世界を作り上げているのです。

p49



最初のシーンで、テーバイの住人たちがペストを何とかしてくれとオイディプスに頼るのは、彼が至高の権力者だからです。「あなたは権力をおもちだ。われわれのベストを治してくださるべきだ。」そして彼は答えて言います。そして彼は答えて言います。「おまえたちのペストを治すことは大いに私のためでもある。というのもおまえたちを冒すペストはまた、私の主権と王権とを冒しているからだ。」オイディプスが問題の解決を求めようとするのは、みずからの王権の維持に関わるかぎりでのことなのです。そして、彼が周囲に湧き起こるさまざまな解答によって脅かされていると感じ始めると、神託が彼を名指しし、占師がもっとはっきり彼は有罪だと言うと、オイディプスはテイレシアスに、無罪だと答える代わりにこう言います、「おまえは私から権力を奪おうと企んでいるな。」
 彼は、自分が父親ないし王を殺したかもしれないという考えに慄いているのではありません。彼を慄せるのは、自分の権力を失うことなのです。

p51


これを読んで、ある学校で見かけたことを思い出しました。
三銃士の言葉で、これも考える余地があると思うのですが、
「一人はみんなのために、みんな一人のために」とあります。
この言葉のように双方向なら納得できるところがあります。


しかし次にようなことが書いてあるのを見かけました。
「みんなは一人のためではなく、一人はみんなのために」

これを読んだ時にあまりに違和感があって
10回くらい読み直してしまった。
一人はみんなのためにと一方だけ肯定して、
みんなは一人のためにという方向を明確に否定したら、
たんなる全体主義じゃんと思ったことをオイディプスの話の読んでいて思い出しました。



あと教育の仕事で、
自分もそうだけど、
自分の学級をよく見せようという心が多くの人にあるだろうことを思い出しました。
それが誰のためのなのかという問題。もちろんよく見えることがその先生の(権力の)ためになるけれど、それで子どもたちはどうなるのかという問題。その人の中にもう一方があるのかという問題。


このことをなぜ思い出し書くのか考えると、この仕事の世界にはただよく見せようと思っているだけとしか思えないようなことがけっこうありがちではないかと思っているからかもしれない。杞憂なのかな。

ただ本当に子どもたちのためになるというよりは、よく見せたいという思いが強くなりすぎていることはあるかもしれない。


たぶん多くの人がよく見せたいと思うものだから、それ自体は悪いことだと思わない。



それって誰のためだろうか、
本当に子どものためになっているのだろうかと問うことはいいことだと思う。



物語ってある意味極端で面白い。
自分の権力だけしか興味ない人なんてそんな人いないですよね。
自分の権力だけに関わることしか興味ないなんて人…。
こうやってストーリーで表して、
人に生き方を考えさせる、省察させるのが優れた文学の役割の一つかもしれない。


フーコーが言うように権力自体は悪でも何でもないのかもしれない。
お金も権力ですし、権力を離れて生活することが難しい世界に自分たちは生きている。