フーコー 講義集成11 陶冶 救済   なぜ自分は引きこもるのか。

近代教育学や思想でも重要な概念である「陶冶」、「救済」について検討しているところ。p212


世界平和のための国家主義というような考え方は、
自己への配慮の変奏曲かもしれない。
今のわが国はどうでしょうか。


不幸があったときには、気を緩めて孤独と沈黙のなかに閉じこもったり、なすべき義務を怠ったりするべきではない。

プロタコス   p213


これはフーコの説明の中紹介された言葉で、フーコーの考えではないです。
自分はかなり引きこもっているので、仕事以外。
なぜ自分は引きこもっているのかと考えると、
それは自分と僕が近くで関わる子たち(これは未来に出会う子たちも含まれる)の救済のためかもしれない。


8、9年前くらいに
ヤマノハ兄さんが
「一緒に突き抜けようよ。」と言ってくれた。
それは他者のためでもある。
僕の成長なくして、子どもたちの心の財にはなれない
(でも僕が心の財になれなくてもいいんですけどね。
読書を身につけてそれを心の財として欲しい)。
また自己自身の救済のためでもある。


僕は引きこもっているけれど、
毎日ストレートに結果が見れる仕事の世界にもいる(本当の結果は事後的にしか分からない。)。



いろいろあるけれど、
子どもたちもその背後にある家庭も()に入れて
(もちろん知ろうともするし、その上でできることはやるけれど)、
自分を変えることを考えることが基本かもしれない。



省察のきっかけになる。フーコーの講義。


フーコーが説明していることと外れてくるだろうけれど。



でもフーコーの研究のおかげで、
意識できることが増えてきた。


池田先生の言葉にある思いもより分かってきた。