講義の中のゼミナールのようなところ。フーコーが質問を受け付けている。p226
引用する大変だから記憶だけで
フーコーによれば
プラトンにおいては(また古代哲学全般)、真理の認識には自分自身の変容が必要だった。また真理の到達は神の認識にも関わっていて、それがまた自分を変容させるという循環になっている。
しかし
古代では例外的にアリステレス、近代ではデカルト、カントを契機に、自分の変容なしに、主体は真理を認識できることになった。
プラトンにおいては、
他者を救うとき、同時に自己自身を救うことになった(ここで思い出すのは日蓮や宮澤賢治)。
ところが今は関係が逆転しているのように思われるとのこと。
ひとは、自己であるがゆえに、そして自己のために、自己を配慮しなくてはならない。そして他者たちの利益、他者たちの救済、あるいは他者たちへ配慮するその仕方などは、付随的な利得して現れてくる。
つまり、自分のためにがんばって、それで利益があったら、そのおこぼれとして、他の人のためになればいいという考え方だと思う。
思うのは、今では、どちらの考え方の人にも僕は振り返ると出会ってたと思う。創り話の中でもどちらの考え方の登場人物にも出会ってきたかな。
後者のタイプ、自分のためにがんばって、その結果、他の人のためになればいいと考えている。
よく考えたら僕は後者のようにただ考えるのではなくて、明確に考えていた時があったと思う。いつだったか思い出せないけれど。
これもいつだったか思い出せないけれど、後者の考え方に違和感を覚えるようになったことも思い出す。
今の自分はどう考えているのかな。
似ているようでそれにしてもすごく違う考え方だな。
逆転と形容されているくらいだから。
後者の考え方のほうが自然だとは思う。
だけどそれでいいのか。
僕が後者の考え方に違和感を感じるようになったのは、
宗教とか、プラトン、ジンメルなどの影響なんだと思う。
何でも自分が自明になっていることをもう一度、ふるいにかけてみるのは大事なことだと思う。
現実には両方の側面があるからとは今は冷静に思う。ただ後者の考え方だけに割り切るのは、かなり寂しい感じがするし、違和感はあるかな。これだけに割り切っちゃうことに違和感があるのかな。
フーコーは図式的な話をしている。
おおまかに話している。
プラトン的な側面が人にも社会にも失われてきたことは事実かもしれない。
どちらの側面もあるからというので、
十界互具を思い出す。仏教はよく自己自身や世界を捉えていると思う。