フーコー 講義集成11

晩年のセネカ

彼は時間を(無益で無駄な研究)に費やしてしまった、と言います。また(満たされそこねた、まずく使われた、うまく利用できなかった)時期が何年もあったために、時間は浪費されてしまった。

p306

この文章やセネカの文章のほかの文章を例にして、ストア派の伝統的な道徳性が立てる目標が、認識や自然認識と両立可能であるばかりではなく、こうした認識を代価にしてのみ到達可能になることを示そうと思います。こうした自然認識は世界全体の認識でもあるのです。ひとは世界の偉大なる円環を廻ってはじめて、自分自身に到達できる。このことをセネカのいくつかの文献に即してお話しすることにしましょう。

p309

講義の区切りのところ。次の予告。
これはフーコーもそう考えて、その考えをセネカの文献に即して話してくれるらしい。次は楽しみ。フーコーが何を考えているのか興味がある。



「自由であること、それは隷属から逃れることである」p316
自己への隷属から解放されなければならないということらしい。

自己への隷属(義務=負債のシステム)。


それからの解放を可能にしてくれるのが『自然研究』。

「事物の自然=本性を眺め、調べてみることが役立つだろう。」p318



自分自身からの逃亡へ『自然研究』でやれるらしい、まじっすか。



それは、私たちが解放される以前には善だと見えていたものの卑小さと、その不自然で人為的な性格をわからせてくれるのです。富、快楽、栄光など、はかない出来事のすべては、その真の大きさを取り戻します。


偽の価値をすべて低い価値ものとして退けることができるようになる。わたしたちがとらわれている偽の交渉を退けることができる。


私たちの生存はひとつの点、空間と時間の中のひとつの点にすぎない。そうした私たちの小ささを測ることができるのです。


確かに外の関係においてしか、真に自己自身を認識することはできないかもしれない。


わたしたちがいる場において、わたしたち自身を捉え直すことができる。
思い出す映像がある。




自分自身を知るには、自然に対する視点を持っているという条件が必要。確かに其の通り。
わたしたちは一つの点でしかない。


第二の結論、自然についての知は、私たちを解放してくれる、開放的な効果がある。


徳をもった魂とは「世界全体と交流し、そのすべての秘密を探索しようと注意を払っているような」魂であるとのこと。



この後は自分を殺したいか生き続けたいかという決断の話になるので、びっくらこいた。


生きるということは、此の世界の全体(素晴らしいものと苦しみをともなって広がるのこの世界全体)を選ぶこと。



俯瞰して出てくる苦しみのセネカがあげる例として、
「たくさんの肉体、ないしは心の疫病があるでしょうし、また戦争や強盗や毒物や難破や、天候の不良や肉体の病気や、最愛の者への不時の悲しみや、更には死がーそれは安楽な死か、それとも苦痛や拷問による死か定かではありませんがーーあるでしょう。そこで、あなたはご自身でよく考えて、あなたがどれを望むかを判断してください。あなたがこういうことに立ち入ったならば、あなたはそれを通り抜けねばなりません。」p328



あと200ページくらいある。
でも11、12、13巻とはやく読み切りたい。