パタンランゲージ

2012年の井庭先生のパタンランゲージの授業をitunesUで視聴ながら思うこと。

パタンランゲージと牧口常三郎の文型応用主義は似ていると思う。パタンランゲージは体系的なので、その点が違うけれど。観察比較して構造(関係・パタン)を見出すという意味では、構造写像理論とも繋がる。

あと教育学があるとしても、実践的には教育理論は、パターンを表すまでかもしれない。

パタンと言えるものが教育の世界にもあるかなと振り返ってみると、ケーガンの協同学習で言われているようなこと、ペスタロッチ主義の教育理論、ヘルバルト主義の教育理論など、たくさん思い浮かぶ。

パタンランゲージとなると観察する対象が、教授理論、教育技術だけにならないか(デュルケムと牧口が教育学で対象としているの教育技術)。例えば授業のパタンランゲージを書くとすると、授業自体の観察と、そのほか、学級経営との関係など環境との関係も含まれてくると思う。

こういう価値創造的な研究もあるのか。

例えば読書感想文(また読むこと、読み方)のパタンランゲージが書けそう。それは読書感想文のよく出ている攻略本みたいになりそうだけど、視覚的に違ったものになると思う。パタンランゲージは、表し方が、関係的で美しいと思う。

無料で大学が講義が見れてうれしい。また学生に戻った気分。
基本的なパタンランゲージのアイデアは、講義とパタンランゲージの原著の2冊を読めばよく分かることができると思う。

教育学がもし技術を対象とすると、そこから見出せるのは、「コツ」という感じだろうと思う。理論と実践の間にある「コツ」。それでいいと思う。自然科学とは違う。認知科学とも違う。認知科学は認知のもっと普遍的な次元を実証的に明らかにしてくれる。

対話を促すために意図的にシンプルにしているのか。

井庭先生の授業は直観的でアクティブラーニング。そして価値創造的。




生きているパタンを見出すには、必ず観察からだという。アレグザンダー。直観教育を思い出す。カントまで遡る。カント、ペスタロッチ、ヘルバルト。


引き続き井庭先生の講義を視聴。
パタンを見出して行く過程は、
牧口先生の構想していた教育学にかなり重なると思う。
KJ法を使って、仕事について考えてみるのかもいいかもしれない。
牧口先生が構想していた教育学はもっと広い概念だけど、その中にパタンランゲージを書く過程は一つの研究法として重なると思う。
教育学のできることはコツレベルまで(認知科学など教育心理学も含めると話が違ってくるけど)。
それはそれで凄く大事だと思う。
そういったことを共有することで楽によりよく学ぶことができる。


創造的な社会。ルーマン読んだことない。
1903年に牧口常三郎の『人生地理学』は発刊されたのですが、まだ価値創造という概念はまだないけれど、そういった社会を志向していることが分かる。その後、約100年前に発刊された『創価教育学体系』のⅠ〜Ⅳでは、そのことが価値創造という術語を使って明確に志向されている。郷土科を中心とした教科構造論も思い出します。創価作用。


『バトル』の前の新しいアレグザンダーの本について。
パタンを評価するパタンが内部にある。センターというらしい。アレグザンダーの論。価値観のことですよね。

と思ったけど
名付けられない質のことみたい。センター=名付けられぬ質。

センタリングプロセス。クオリティに到達するために必要。

こういう本質なんて存在しないというのがブッダの話。そのこともセットで思い出す。確かに全部概念。パタンも理論も作られたもの。区別があることが僕は大事だと思う。本質が存在しないかなんて分からないけれど、パタンも理論も少なくとも本質そのものではない。

だから名付けられない質と言うのだと思う。




「生活することが第一である。学習は生活することをとおして、また生活することとの関連においておこなわれる」デューイ

センターというものがパタンを評価する基準になるというような話だったけれど、もしそれがあるとしても、パタンのいいわるいが分かるのは、そのパタンを使った時だと思う。実際に、アレグザンダーのパタンも、使ってみて上手くいかないことパタンが分かったという歴史的事実がある。冷静に考えて、そのパタンが有効であるかどうか、実験証明する以外に、そのパタンを使ってみること以外に有効性を証明する手だてはないように思う。

自分の中にその評価する基準(センター・名付けられない質)があるのかもしれないけれど、それが勘違いで間違っていたということがたくさん出てくると思う。

そのパタンを生活してみなければ、よいか悪いか評価できない。