けっこう大事だと思うこと。


たぶんデュケルムやカント、牧口常三郎などと向き合わないで、教育目的論など教育について根本的に考えるのは、無駄が多いかもしれない。急がば回れで、まず近代教育思想の認識をしっかりしたほうがいいかもしれない。もちろん技術も認識も洗練されている部分もあるという自覚の上です。


明確な理由があって、
例えば苫野さんや西研さんたちは、ポストモダン批判をして、モダン(近代)の哲学と向き合い、ヘーゲルなどと向き合い批判、発展、継承をしています。モダンはそれまでの人類の歴史の試行錯誤の結晶とも言えるものです。そこから教育学や教育論などを展開している。


教育学でも同じで、モダンを批判することなしに、モダンを乗り越えることは不可能に近いと思います。モダンを認識せずに、経験だけから考えるのは無理があると思う。または、経験だけではなくても、最近の教育思想だけから考えるのはリスクがある。最近の教育思想がデューイやデュルケム、カントなどに対する認識が怪しい感じがする。例えばいくら認知科学を研究していても、歴史認識がないと思うことが教育論を読んでいて思うことがある。


モダンまでの試行錯誤を、それへの認識なしに超えるのは難しい。昨今の教育思想も、教育論も、その認識があやしく、継承・発展しているとは思えなくて、同じような問いだったり、同じようなところをぐるぐる回っているどころか、後退していると思えるところもある。


急がば回れで、モダン(近代哲学)に戻りたいと思う、僕も。


最近プラトンまで戻って近代哲学を学んでいて、自覚したのは、モンテスキュー、カント、デュルケム、デューイ、牧口常三郎など、その後のフーコーデリダなどに共通してあるのは関係思考です。