よく考えたら政策は上から押しつけるもの(押しつけられるものが全部イヤというわけでもないんだと思う。それなら国家はいらないということになる)。
学習指導要領も修正を前提として上から打ち出す。


ヘルバルトがはじめの著作で算数を重視、大切にするべきだと直観教育の文脈で論じているけれど、学習内容として算数を扱うことが今はほぼ自明となっているのか、問題にすらならない。これを疑ってみてもいいと思うのですが、疑ってみても、僕はヘルバルトと同じ結論になる。



科学といってもいろいろなレベルがあって、
幼児の認知過程を観察・実験して、あることが分かったとする。
これは幼児の認知過程がどうあるかを記述するもので、どうするべきかを明らかにするものではない。基礎研究。
こういう研究もあれば、比較と比較を用いない授業なら、どちらが効果的かという効果を測定する量的な研究もある。結論が出れば、どうするべきかというよりは、どちらのほうが効果的だろうということが分かる。


質的な研究の結論(モデル)は、ある程度、他の事例にもあてはまればいい、部分的にしか通用しないとというのが前提だったような。


もっとエビデンスベースドについても知らないと、どちらにしても評価できないか。量的な研究が重視されるということだったかな。基礎研究が疎かにされる恐れがあるとか。それはよくないか。