宿命という妄想

Tさん

【宿命という妄想】
一年前の投稿です。
過去の宿業とかいうときの、現在の「結果」って、
体が不自由であるとか、貧困だとか、
とても、世間的な問題だと思いませんか。
過去の宿業の結果、あんなに人をさげすむ金持ちになったとかなら、まだ分かります。
何で、金持ちが上なん?
ばりばり世法やん。
第一、ゴータマ・ブッダの出家(出世間)の理由というのは、
「人は病む、老いる、死ぬ、にもかかわらず、
病むこと、老いること、死ぬことを嫌悪するあまり、
病人、老人、死者を嫌悪し、差別する。
私は、そこに、健康の傲慢、若さの傲慢、生きていることの傲慢を見た。
そういう社会は生きにくい」というものでしたよね。
宿業論というのは、仏教を世法に堕落させるものなんです。
体が不自由な人が、また経済的に大変な人が、
尊厳を奪われることなく、生きていける社会を作るほうが、
仏教らしいと思いませんか?
その人の自己責任とするのは、「社会」を変えられたら困る人たちの、詭弁ですね。
瞽女縁起 宿命という妄想からの解放
みなさん、瞽女さん知ってますか?
目が不自由で、手取り(先頭を歩く、目が見える少女)につかまりながら、毎日、40キロ、50キロと歩き、村々、町々で、歌を歌っていった、女性芸能者です。
特に、雪国で、両方ががけ道などを、数人で、歩いていきました。
20年ほど前までは、存在しておりました。
10年ほどまえ、友人が、新潟県の二組の瞽女のCDを出しましたが。
その瞽女さんたちが、大事にしている「瞽女縁起」というのがあります。「瞽女」という存在がどのように生まれたのかが、伝承されたものです。
そこでは、平安時代にそのルーツがさかのぼられます。
そのころ、仏教の思想がかなりゆがんでいて、
目が不自由に生まれたことは、
前世の宿業だと思われていました。
それは、キリスト教の「ヨハネ福音書」にでてくる、
当時のユダヤ教の考え方と同じですね。
三世の生命とか、因果論というのは、「仏教思想」の卓越性でもなんでもなくて、
世界宗教が、それまでの世間の差別性、偏狭性を打ち破るときに、その「壁」として立ち現れて来るものなのです。
ヨハネ福音書」第九で、イエスは、この人が目が不自由なのは、世間でいうような過去世の宿業とかではなくて、神が、私たちの心を試すために遣わされた神の使いである、と語られるわけです。
さて、「瞽女縁起」では、
当時、目が不自由なのは、過去世の宿業、特に、仏典、特に『法華経』を軽んじたための、報いであると思われていました。
それで、ある目が不自由な少女が、将来について悲観していると、
どの寺社も、えらい人たちも、
それは、過去世の宿業だから、
もっともっと祈りなさい!
と、言うわけです。
娘さんも、ご家族も絶望的になるのですが、
ある夜、全員が同じ夢をみるわけです。
観音菩薩が夢のなかに現れ、
「そんなの気にすることないよ。
あなたは、家に閉じこもらずに、
町に出て行きなさい。
そして、芸を磨き、それを元として、
町で生きていき、
同じようなことで苦しむ人たちに、
芸の道をひらいていきなさい」
それで、瞽女という存在ができたのだという伝承です。
今から考えても、とても示唆的です。
社会性というのが、とても大事であるということとか。