クラスの学習問題って、クラスのすべての個にとってその問いが切実であることってほとんどないとずっと思っています(全体の話し合いが必要で効果的なことは場面によってたくさんあると認識しています)。でもそういう授業形態を主でやっている方は、その方法で、クラスの子どもたちがみんなアクティブにラーニングすることを目指してきました(アクティブ・ラーニングという概念がなかった時から)。それで問いがある程度上手くいった場合(僕にはどちらかというと全然問いが切実でなくて他人事になっている子たちがよく見えましたが)、そういうクラスの学習問題での練り上げるような学習がアクティブだというわけです。僕にはそう見えなくても、「いやーアクティブだねー」「子どもたちはがんばっていた!」「話し合いが深まったね」となります。それはそれでいいのだと思います。子どもたちの姿の解釈は人によって違ってきますし、仮にあの子は手遊びをして、窓見て全然アクティブで主体的ではないですよと指摘、解釈があったとしても、こういう授業を目指している方は、その子を一斉授業の方法の中で、アクティブにする方法をさらに考えるだろうからです。ネイチャーゲームは、そういう授業の事象提示の部分で大きな力を発揮できると僕は昨日思いました。学習問題作りがある程度成功すれば、それなりにクラスの問題になるかもしれないと思います。


今回の
アクティブ・ラーニングの打ち出しで大事だと思ったのは、一定の方向性を示し、自由度を保証したこと。


アクティブ・ラーニングの視点にまた個別化の視点が加わると違ってくる。今までと変わらないけれど、いろいろな表現を認めつつ、小さな改善を重ねていくことが大事だと思う。
正直、クラスの学習問題のごり押しとか、練り上げのごり押しとか、好きではないです(全体の話し合いは必要に応じてやればいい)。でもアクティブ・ラーニングの打ち出しで、他の方法や考え方も認められ易くなったのは、いいことだと思う。



正直、クラスの学習問題とか練り上げとか特定の型を一斉に押しつけてくる人たちがいるので、文科省が言っていることを正確に認識して、偉い人たちの中に、そういう亭主関白なようなことがなくなってくれると嬉しいです。




同い年の大人が40人集まったと考えると分かり易いかも。ある事象提示があって、見て考えて、ひっかかりや疑問が生まれる。一人の疑問がみんなの切実な問題になる。不可能とは言わないですけど、かなり無理があると思う。でもこういう授業を国語でも算数でも理科でも社会でも毎日のように求められ、こういうことをずっと指導され続けてきた。


こういう一斉に一つの問題を練り上げるような問題解決型の授業じゃないと、「授業ではない」と鼻で笑うような人たちもいた。