斎藤正二先生がカッシーラーを紹介していたのを思い出して

最近、斎藤正二先生がカッシーラーの教育哲学は敵を理解させてくれるっていうところを紹介していたのを思い出しました。

 たぶん、われわれの「教育哲学」ないし「教育の哲学」も、何も為し得ないであろう。教育哲学を学び、教育の哲学的思惟を深めたところで、眼前の教育的事態を改善することなど、金輪際なし得ないであろう。それならば探究や思索を放棄したほうがいいよいかといえば、それは違う。カッシーラーが言うように、教育哲学を深く学ぶことは「われわれに敵を理解させうるのである。敵と戦うためには、敵を知っていなければならない。これは正しい戦略の根本原則の一つである。敵を知るというのは、その欠点や弱点を知るのではなくて、またその強さをも知ることを意味している。」われわれは、みずからの両眼をはっきり見開き、眼前の教育事象に立ち向かわなければならない。そして、それこそが、自分自身で”ものを考える”ことの出発点(アルファ)であり、到着点(オメガ)である。
 終わりに、一つだけ付け加えておきたいが、われわれの「教育哲学」ないし「教育の哲学」になし得る唯一の仕事が「われわれに敵を理解させ」ることであるとの帰結をひきだす場合、謂うところの「敵」とは、われわれに洗脳を迫る政治的神話や、服従を迫る国家権力の命令体系をのみさすのではない。「敵」は、われわれ自身の内部にも巣食っているのである。古代ギリシャにおいて、哲学を学ぶ者は「なんじ自身を知れ」という宿題から出発したことは、まことに暗示に富む。じっさい、自分を振り返ってみると,こんなに無知で貧弱で、騙され易いくせに強情で、自由を欲していながら権威の前に卑屈になり易い、情けなくも惨めな存在(ビーイング)はない、ということに、いやでも気づかされずにはいない。「敵」はまさに自分自身である、とさえ言い得る。そして、これらすべてをはっきり知るためには、もはや、詰め込み式の「知識」はなんの役にも立たないであろう。品位の感覚や、根源的な力に支えられた「知性」のはたらきを籍りるのでなければ、われわれの精神の内部に潜む「敵」を見分けることはできないであろう。

「教育哲学入門への再入門」斎藤正二


授業のミスマッチで苦しいことが多かったので、僕は「敵」というのを一斉授業を想定してきたかもしれないです。


でも現場にいて見たり、本を読んだりしていると、ステレオタイプのような一斉授業ばかりでないことに気づきました。一斉授業の欠点や弱さだけではなく、その強さも知るっていうのかな(これは自分たちを知ることにも繋がると思う。一斉授業は自分でもある。自分の所属している社会の教育文化だから。一斉授業の中にいた自分。一斉授業の中でだめになっていくような感覚が忘れられない。一斉授業の中でだめになっていくような感覚の中での抵抗。自分の中の一斉授業。)今も簡単に一斉授業vsアクティブ・ラーニングとか、一斉授業vsワークショップ型授業とか、二項対立で一方を簡単に切り捨てられるように思えないです。でも、授業のミスマッチで悩んできたので、心の底では個別化(主体的な方向への変化)にとてもシンパシーがあります。


対話的(協同的)と言えば、「練り上げ」だけというような貧しいイメージのところから(「練り上げ」が有意義な時もたくさんあると思います)、もっと多様で豊かなところに変わって行きたいです。

学び合いというと前にも書いたけれど、「練り上げ」をイメージする人や西川純先生の『学び合い』をイメージする人、佐藤学先生の「学びの共同体」、ミニ先生をイメージする人など、様々なイメージがあります。今だと個別化の中でゆるく繋がっているというイメージもある。個々で学び合うのも、全体学び合うのもグループで学び合うのもそれぞれ状況に応じてやればいいです。


僕は結局日本の公教育という流れの中にいるので、一斉授業の欠点や弱さだけではなく強さも知って、自分の理想とする方向を模索していきたいです。