別に統計学が高度にできなくても、分かってなくても
統計学とは何か分かっていれば、その基本的な考え方が分かれば、
そのプロセスの計算が完璧に分からなくても、研究の結論くらいは追える。


そのプロセスにインチキがあるものは、まず論文として弾かれるから、あるていどそのプロセスを信頼できると思う。



だいたい論文の全文なんて、めったに読まない。
膨大な量でほとんど読むことは不可能。
これだと思ったのものは読むだろうけど。



学術としてもプロセスがある程度、信頼できるようになっているというのは大事で(スタップ細胞の時みたいに表現・プロセスが杜撰なことがあるようだけれど)、
それがあるから、部分だけ読むような読み方ができる。この点は、とても重要だと思う。読まないですませる方法。



徹底に読まないですませる方法を身につけることが大切だと思う。そうすることで良書に少ないリソースを集中できる。


良書にしても、時間的に生命的に、そのほとんどを読むことができない。


アトウェルのインザミドルみたいな教育実践本を読んだときも強く思った。その前に、そのrwやwwの関連の本をたくさん読んできたから、なおさら思う。遠回りをしてしまった。この分野もいろいろな実践者があるけれど、重要な実践者の記録を知ることに欠ければ、言い過ぎかもしれないけど、太陽がないみたいなもの。


雨後の竹の子みたいにアクティブ・ラーニングがどうとかいう教育書が出ているけれど、時間をかけて読む価値があるような本はほとんどないだろうと思う。


2回読み返す価値がない本は読む価値ない。
良書に集中すること。



ただダメな本も読んでいるから、見分ける力もつくのだと思う。しかし一流なものからふれるようにという恩師のアドバイスは的確だったとしみじみ年齢を重ねるたびに思いが強くなる。一流を知るから、二流、三流が見分けられるようになるって、本当のことだと思う。観察すると、しょぼい本しか知らないで、人生が終わってしまう人って、歴史上にも今もたくさんいると思う。2流、3流しか知らなければ、一流が分からないまま、知らないままになってしまう。判断力の問題。



ショーペンハウワーの言葉に結晶する。
「良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである」(ショーペンハウアー


歴史上、本をたくさん読んでいても、一流の大学に行っても、学問を積み重ねても悪いことする人がたくさんいた。でも本当の良書に出会って吟味し、考える読書をした経験がある人がちょっと違うのではないかと僕は考えています。少なくとも、価値創造に向かう傾向はあるんじゃないかな。本物の知性の人が、弱い者いじめするだろうか。僕は決してそんなことはしないと思う。



なんでこういうこと考えるのかというと、
一流の大学出ても、学術を積み重ねても、酷いことする人たちがいて、知性って、倫理や道徳に意味ないかなっていう疑いがあるから。でも本当によい生き方って、僕はよく考える先にしかないんだと思う。その苦悩の先にしか。よく考えることを助けてくれることの一つが良書だと思う。


「汝自身の悟性を使う勇気を持て」(カント) 


人をいじめるなんて判断、心底、頭悪いと僕は正直思う。
こういう大人もいた。こういう大人にも出会ってきた。
大人数で一人をいじめる。卑怯で馬鹿なやつら。



「学問は綱渡りや皿回しとは違う。芸を覚えるのは末のことである。人間が出来るのが目的である。大小の区別のつく、軽重の等差を知る。好悪の判然する、善悪の分界を呑み込んだ、賢愚、真偽、正邪の批判を謬まらざる大丈夫が出来上がるのが目的である。」(夏目漱石



人は出会いで変わる。悲しいことにほとんど偶然だ。
僕は思うのは、人は良書に出会うことで、少しは善く変わるのではないかということ。
実際に僕が変われたから。今の自分がいいとは思えないけれど、マシになった。
昔はもっともっと酷かったから。
それに人が出会いによって変わるところを、僕は見てきた。