子どものSOSをキャッチできるおとなになるために
      西野 博之さん(川崎市子ども夢パーク)
 家に帰らない・帰れない子どもたちに、この30年間、少なからず出会ってきました。「早く帰りなさい」は空しく響き、安心できる空間と人間関係を手に入れられない子どもたちが、空腹を抱えながら、夜の闇の中を歩いています。誰かを悪者にしても、問題は解決しそうにありません。すれちがうおとなたちから声もかけられず、姿が見えない透明人間のように扱われる子どもたち。
 「問題行動」の鎧を身にまとい、様々な「試し行動」でおとなたちにシグナルを送っても、そのことの意味をキャッチすることができない鈍感なおとなたちによって、「事件」が生み出される土壌はつくられていきます。まずもって取りかからなければならないことは、私たち子どものそばにいるおとなたちの感度を上げること。子どものSOSをキャッチできるおとなになることなのではないでしょうか。
 子どもは辛ければ辛いほど、それを言葉にはしません。言葉にならない思いを聴こう・受け止めようと子どもの傍にいること。正論を振りかざした「指導」をする前に、まずもって、困ったときには相談してみようと思える人として、子どもから「選ばれるおとな」に私たちがなれているのかが問われているのだと思います。
 身近なおとなに自分の気持ちをしっかり聴いてもらえたと思えた時に、子どもは初めて自分自身の「問題」に向き合うことができるようになるのではないでしょうか。
 教員や子ども施設の職員をはじめ、子どもと関わるおとなは、まずそのためのスキルを磨くとともに、子どもの居場所をつくるために必要なまなざしを手に入れるための」研修に力を注ぎたい。
 そのまなざしを持ったおとながいるところに、安心できる居場所が広がっていきます。
 学校やこども文化センターの中に、子どもの居場所をつくる。会議の席上でも提案しましたが、空き家などを使って、異年齢の子ども・若者や地域のおとなたちがともにご飯をつくって食べられる「子ども食堂」を開いたり、地域の公園をプレーパークにして、子どもが遊びを通しておとなと関わり、人間関係を育むことができる居場所づくりが具体的に求められていると思います。
 最後に「川崎市子ども権利条例」の施行を目前に控えた2001年3月。その説明集会で、条例策定にかかわった子ども委員会が次のような「子どもからおとなへのメッセージ」を発表しました。今では『川崎市母子健康手帳』に掲載されるようになったこの言葉を、いま一度おとなたちは胸に刻み込む必要を感じています。
「まず、おとなが幸せにいてください。
おとなが幸せじゃないのに、子どもだけ幸せにはなれません。
おとなが幸せでないと、子どもに虐待とか体罰とかがおきます。
条例に“子どもは愛情と理解をもって育まれる”とありますが、
まず、家庭や学校、地域の中で、おとなが幸せでいてほしいのです。
子どもはそういう中で、安心して生きることができます。」
川崎市「中学生死亡事件に係る専門委員からの提言」に寄せた文章より)


西田さんが言われる通りだと思う。
自分の心もこういう方向に向いてる。
自分の振る舞いを振り返り反省します。


Tさん

まったくこの西野さんの言う通りだと思います。
自分ががんばる空間をつくったら、そこにいる人たちもがんばらないといけません。
自分が、ほんとうに、落ち着いて、いろんなことを考えて、ちぢこまっていた心と体、そして、手を伸ばせる場所を、
まず、自分が周辺に作りたいなぁと思います。
まず、自分が、他の人にとって、「手足を伸ばせる場」でありたいと思います。


こういうチームとか、組織にしたい。
安心してチャレンジできる、安心して気楽に考えられるというのかな。そういう場がいい。


ゴリさん(岩瀬直樹先生)の実践やイエナプランを想起する。


むのさんの詩の方向の意味も分かる。
そういう存在にも意味があって大切なことも分かる.
でもそればっかじゃきつい。
僕は、そういう方向性でごりごりやってきたから、とくにそう思う。
ただ今の自分は、気が抜け過ぎだとも思う。だからむのさんの言っていることも分かる。


詞集 たいまつ 10
         むのたけじ

夜のおわりに朝がくる。
しかし、夜明け直前の闇は最もくらい。


詞集 たいまつ 100
         むのたけじ

さびしいときにそのひとを思えば慰められる、
そんな友はほしくない。
怠けるときにそのひとを思えば鞭うたれる、
そんな友がほしい。
友のために、
私もそういうものでありたい。



詞集 たいまつ 114
         むのたけじ

もし自分のためにかがやくなら、
燈台は船をみちびくことができない。

ぼくの好きな(好きだった?)むのたけじさんの詩。





持続性があるのは、西野さんの方向だろうな、たぶん。
どちらかをカットするということじゃないけど。


まずベースにしたいのは西野さんの言われている方向。



もうたいまつ100みたいな自分になりたいとは思わないな。
でも僕にとってたいまつ100みたいな恩師はいる。僕にとって、大切な大切な存在。
にもかかわらず、やはりたいまつ100みたいな自分にはきっぱりなりたくない。


でも不思議なんだなあ。
恩師は、思い浮かべると僕を𠮟咤するような存在でもあるけれど、心がほっとするような存在でもある。
ふしぎだなあ。


こういう存在になる関わり方が他者にできるということがすごいのかもしれない。





安心できるけど、ゆるみきっているわけじゃない。
他者への配慮は当然あるし、





一斉のことも大事だけど、スタンダードとか。
ただ自己選択・自己決定という視点は、
子どもたちがメインの学級などでも、大人の組織でも、もっと大事にされるべきだと思う。

自己選択・自己決定が安心してチャレンジできる場の核にある要素の一つだと思う。