「斎藤正二の牧ロ常三郎研究」伊藤貴雄

「二育(paradigm)と 三育(1deoiogie)と の間」にっいては、以前 『斎藤正二著作
選集 第4巻 』の書評で扱ったので詳述しないが、近代目本思想史研究としても重要な論点を提 起しているので最小限触れておく。同論考は、いわゆる《三育》 教育は 「知育・徳育・体育」 の三部門から成る という思想が俗説でしかなく、そもそもこの三分法の創始者とされるスペ ンサー自身が《二育》 教育は「知育・体育」の二部門から成る という思想の持ち主であ ったことを論証したものである。そこで斎藤は、スペンサー翻訳史を克明に跡づけ、上記のよう
な誤解=歪 曲が、明治10年代後半に文部省が自由民権運動を抑圧するプnセ スで生じたものであ くパラダイム
ることを論じ、「『二育』という科学思考は《paradigm》 として学問研究の基礎的枠組をなすが、
くイデオロギ いっぽう、『三育』という政治思考のほうは 《lde・logie》として信念体系形成のための説得手段
の役割をのみもっぱら演ずるものである」(34)と結論する。これだけでも誠に興味深い論なのだが、 とりわけ牧 口研究 の点で注 目すべ きは、近代 日本 でスペ ンサー の 《二育》論 を正確 に理解 した数
少ない思想家の一人に、斎藤が牧口を挙げていることである(斎 藤によれば、同様の見識を有し て《二育》論を主張し得た知識人は、他には西田幾多郎木村素衛くらいしかいないと言う(35))。
周知の通り、牧口は 『創価教育学体系』第1巻 で、日本人はよく 「知育に急なるがため徳育不振 ばか
に陥った」 とか、 「知育許 りに骨折 って、徳育 は一 向に顧み ない」 な どと主張す るがそれ は誤解 であり、実際は正しい知育がなされなかったから真の意味で徳育もなされなかったに過ぎない、 そもそも知育と切り離された徳育など存在しないのだ、と述べている(36)。斎藤の論考は、この
主張の学問的妥当性を思想史的に検証したものと言ってよい。

「斎藤正二の牧ロ常三郎研究」伊藤貴雄
http://libir.soka.ac.jp/dspace/bitstream/10911/3369/1/kk5-138.pdf

俗論でしかない三育論(笑)。
何度、思い出しても痛快。
この斎藤正二の「二育(paradigm)と 三育(1deoiogie)と の間」を読めば、歴史学の醍醐味を味わうことができます。