教育学は教育事象を帰納するもの。その教育事象が複雑で研究は難しい。
がんばって条件を制御してそろえようとするけど、プロセスの複雑さや教師の影響力が大きいなど、条件をそろえることが難しい。教師によって差が大きく出るようなものは教育理論とは、もしかしたら言えないかもしれない。教師の資質にあまり左右されない、理論や方法論、工夫があるといいと思う。





「学校教育の場合、特に次の点が確保されていなければならない。すなわち教師の力がほんのわずかしかないと推定されるときにも、彼はそのために害を受けないのみならず、かえって目的にかなった進歩がなされなければならない(この点は重要だ。教授法を行う個人の技能がすぐれているためというより、その方法の様式の本性そのもののために成果が挙がるというような、そのような方法が用いられ、すくなくとも初級の知識の修了までは、教師をそのような方法の単に機械的な道具にするような教授方式が発見されない限り、民衆教育を広く一歩前進させるなどということはとうてい考えられないと私は信じる )。」ヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチ



そういえば、ジンメルが教授学みたいなものは、教師の足りないところを補うものでしかないというようなことを書いていました。そういうことを知らなくても、優れた教師は結果を出せるらしい。




よく考えたら、やはり教師の資質に大きく左右されるようなものは、理論と言えないと思う。いろいろな意味でペスタロッチの考えは方向として正しいのではないかな。



教師という変数にできるだけ左右されない理論、方法、コツが優れていると思う。
教師という変数に大きく左右されてしまうようなものは、教育の理論、基本とする考えとして、あまりにも頼りないかもしれない。