「問うて曰く出処既に之を聞く観心の心如何、答えて曰く観心とは我が己心を観じて十法界を見る是を観心と云うなり、譬えば他人の六根を見ると雖も未だ自面の六根を見ざれば自具の六根を知らず明鏡に向うの時始めて自具の六根を見るが如し、設い諸経の中に処処に六道並びに四聖を載すと雖も法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡を見ざれば自具の十界・百界千如・一念三千を知らざるなり。」『如来滅後五五百歳始観心本尊抄日蓮

これは佐渡で書かれたものの抜粋。
佐渡には行ったことないけれど、当時は寒さで死んでしまうようなところだったみたい。
でも日蓮を助けた人たちがいた。それでも凄まじい状況だったと思う(寒さ以外にも、常に日蓮の命を狙う者がいた)。
今のような現代的なものはすべてないから。気温も当時はきっと違う(ちゃんと歴史を資料に基づいて学術的に学びたい)。


まずプラトンの洞窟の比喩を思い出しました。
あとテキストを読むことにも似ている。
文字は目に見えるけれど、見えない行間の意味を読むこと。


サンテクジュペリの「大切なものは目に見えないんだよ」というメッセージにも繋がる。


やはり御書を読んでも、心がしゅっとする。
無理やら根性論は嫌いだけど、
本当に誓いに信念に慈悲に生き切った日蓮は、
そういう次元にはないのだ(たんなる根性論とは次元が違う)。
心にすっと入ってくる。


やはり誰が言っているかが言っている内容よりもさらに重要。


出処を質問している(現代の人々でさえ、状況に応じて、適切な場面で、自分もふくめてできないことが多いのに。)
いろいろ読むと日蓮は、当時最高の知性の人だったことも推測できます。


自問自答している。
プラトンの対話篇とも本当に似ている。