教育の個別化が仕事にならないかな。
これが最もやりたいことなのかもしれない。
経済を土台(原理)とした教育の個別化。
教育の個別化を支える要素もあるだろうし、関わり方は色々ありそう。どのように仕事にできるのだろう。
露骨に経済を基盤に持続する教育の個別化。
経済を原理とせよという視点は、
教育の個別化にこそ必要だと僕は思います。
当たり前じゃんと思われる人は多いと思うのだけど、これは教育現場においては無自覚でそれほど当たり前のことではないと見ています。そのような視点で教育研究では、教育の知識を自覚的にはほとんどの人が見ていないからです。話の中にポロポロって、効率の話が出てくる程度で、それは子どもたちへの効果や効率に関することがほとんどで、大人の費用に関してはあまり話が出ません(教育現場だけじゃない、これって、アカデミックな研究でも同じじゃないかな?)。自覚するには、自分の概念体系として、哲学として、パタンとして、教育や知の特性を捉える必要があるように思います。
違う話になってきてしまいました。
少なくとも自分は大切なことだと思うから、それを原理とすることをこれからも気づいたらつぶやいていこう。



概念体系と科学的であること、自覚的であることは、同じ意味であるというヴィゴツキーの言葉が強く心に残っています。言葉にしない限り、無自覚なんだと思う。それが今の教育界の最大の課題の一つだと自分は思います。



ラカンの言語って無意識だというものの見方はすごいと思いました。社会的に、経済、費用、トレードオフなどの言葉があったとしても、自分の中で概念化、言葉にしない限り無自覚なんだと思う。社会の言語は無意識としてあるから、なんとなくは自分の中にある。だけど、そこから直観して、考えて言葉にしていくことが一人一人に必要なのかな。。