チャプター1を読んで、これ以上読み進めたいとは思えなかった。しかし、人格について真面目に論じている本はあまりない。もう少し読んでみよう。

法華経と重なるところがある。法華経を思い出す人間観。仏教や心理学が同じようなテーマを扱って、論じている。西洋の由来の人格理解や他の仏教や科学の人間理解も知りつつ、総合的に考えていくのはベターかもしれない(清水俊史さんの仏教論を読んで、近代的な価値観である平和主義をブッダに当てはめるのは間違いだというのは解釈的な位置方向として理解できるし、歴史家はそうするべきだと思うけど、ブッダが平和を志向していたことは間違いないし、平和主義に似ているのだ。擁護しようという気持ちを抜いても事実とは言い切れないけど、仏典からそう言えるのだ。同じものではないという解釈は、間違いなく妥当でもにているで十分だ。比べて時間軸で共通するところを考えるのも解釈であり、その解釈は、完全に的外れというわけではない。あの偏った見方も必要だ。それがすべてだと思った大間違いだと思う。近代的な価値観でブッダを解釈だけも間違いだ。しかし、近代的な価値観とブッダの共通項やにているところを捉える解釈は有意義であると思う。そういう清水さんもわかっているのだろうけど。なぜなら神話的なブッダは社会を改善する運動のエンジンのような働きをしていたことを指摘していたから。ブッダの違う神話的解釈が戦争や差別を助長した歴史もあったことは事実だけど。これもソクラテスもイエスブッダも書かなかったことに原因があるようにも思う。弟子たちが書いたものしか残っていないから)自分は仏教と心理学について、少し学んできたと思う。一神教や西洋哲学も少し。この本は、西洋由来の人格について、もうちょっと詳しくなれる本かもしれない。

自己犠牲は嫌いだけど、捧げる哲学はいいのかもしれない。何にこの命を捧げるかは、自分が選ぶことだ。無駄死にはしたくないと思う。こんなことを書く怖い人だと思われるかもしれない。

しかし、人が何が仕事をフルタイムでやるだけでも人生を多くを捧げることになる。例えば、音楽や絵画に創造することに人生を捧げる人もいると思うし、いました。そのようなレベルの話で、決して命を軽んずる意味ではないです。

一年前くらいもジンメルの生命を「捧げる」ということについて考えていた。
==
「恐らく、人々は、私と同じように、生命というものを世界観の中心に据えて尊重して来たに違いない。そして、その結果、彼らが知ったのは、生命はこれを守るべきものではなく、捧げるものであるということであった。」ジンメル

たまに思い出して心にしみる言葉。これは自己犠牲も含まれるのかもしれないけれど自己犠牲ということではない。自分が仕事をやったり、経験はないけれど子育てしたりすることは、自分の生命の一部を捧げているのではないだろうか。この捧げる営みの中に創造も喜びもあると実感する(苦しみもあるんだけど)。
==

神を愛するっていうのがよくわからない。

スピノザ的な神だったら愛せるのだろうか。愛せるかもしれない。自然自体、宇宙自体だから。自分自身でもあると考えることも可能かもしれない。

一つは諸科学が捉える人間像は、一部でしかないことを強く思います。仏教や哲学は、面白いです。諸科学で人格、人間存在の全てを語れると思ったら大間違い。これらは、思考の種類が違うと言ってもいいかもしれない。論理がベースにあるのは、共通しているけど、その先の思考法が違う。

近代的な価値観をそのままブッダに当てはめるのは確かに間違いだ。差異があるのに決まっている。そこに気づいて、研究にした清水さんは、冷静で鋭いと思います。