九識心王真如

Tさん

「九識心王真如」について。
日蓮大聖人の筆法の特徴は、ほんとは否定したい言葉をバンバンつかうということです。
だから、日蓮大聖人の場合は「書いてあるから、言ってる」のではなく、
「書いてあるから、否定してる」という場合が多いです。
例えば、当時、天台宗密教化して、神秘的、貴族的、差別的な「血脈」と言い出した。
大聖人は、わざとそれを使って、ほんとの「血脈」というのは、仏と衆生に水のようによどみなく流れる平等性である、
と、わざと、差別的な「血脈」ということばを使って、その正反対の話にもっていくわけです。
「主師親」も同じです。
完全に、差別的、上意下達的、従属的な封建道徳ですよね。
「開目抄」で日蓮は、わざとそれを出してきて、その封建道徳では、身分が上の人と交流したら、功徳がバンバン出るぞ、という『法華経』安楽行品を使って、日蓮を攻撃する、退転していく門下たちの、疑問をわざと復唱し、
そして、そんなの関係ない。天も捨てろ、功徳なんかいらん、自分は人びとを救いながら生きるという誓いのままに生きていく!
と、「主師親」の封建道徳を、ちゃぶ台返しするわけです。
「九識心王真如」という言葉もそうです。
まず、九識というのは、華厳宗です。
(十界もですが
だから、大聖人は、「十界ではなく、互具だ!」と「観心本尊抄」で述べているんです)
さて、九界というのは、まず大前提として八識があります。
これは、ヨーガ学派の説が、仏教のなかに入ってきて、
八識ができます。唯識学派という、坊さん達の宗教です。
人間の生き方にとって、八であろうが七であろうが、関係ないのですがね。
この八識の考え方は、奈良仏教の法相宗に伝わります。
法相宗と、華厳宗が、優位を争って、華厳宗が、
なんや、お前ところは八か、こっちは九や!といいだしたのが、
九識です。
華厳宗から真言宗にはいり、天台密教天台宗にはいります。
心王は、倶舎宗の考え方です。
変化きわまりない現実を、なぜか、50幾つかに分類して、
そして、人間の存在も分析して、
心王というものを考えたのです。
これは、別に、生命の中心とかいう話ではなく、
心の働きの主なものと、心の働きの、瑣末なものにわけただけです。
真如は、華厳宗真言宗天台密教とつながる、密教で、世界の真実というような意味です。
つまり、「九識心王真如」ということばは、日蓮大聖人当時、都ではやってた、真言宗を中心とする坊さんたちの流行語です。
それを、大聖人は、否定するわけです。
なに!あいつらは、現実の人びとの苦しみをみずに、
「やれ九識だ、心王だ、真如」だと言ってる。
あほか、もっとすばらしいのは、現実を生きぬく人びとの苦楽ともの、生活の尊厳だ。それこそ、中心だ、と言ってるのです。

九識の考え方は、「唯識三年倶舎八年」という、南都六宗のカリキュラムから、日本仏教に入ってきたわけですよね。
「倶舎論」という仏教ならざるものを、仏教にいれてしまったことから、日本仏教の誤りは始まったわけです。
九識論などを振り回して、仏法は、科学と近いんだなどと、わけのわからん、折伏を重ねてきたのは、しんどいはなしです。
人としての生き方を問わねばならないのに。
人としての生き方を誇らねばならないのに。

要はさぁ、自分に恥ずかしくない生き方をしようということと違うのかな。
それにつきるやん。
それを、誇りに思い、それを目標にしたらいいのと違うん。
「私のこの人生を観てください」だと思う。
「この先輩の、この人生を観てください」だと思いますよ。

ユング(九識論とセットで語られることがある)とか九識論とか、自分も影響をとても受けています。
思想史って、証拠が言葉だから、探究すれば真実がかなりはっきりする分野。学び直したい。思想史の分野って学び続けていると分かるけれど、仏教に限らず西洋哲学でも科学理論でも誤解に満ちている世界。


ただ誰がどのような思想をもっているか=自分の思想ではないので、当たり前だけど、学んだ人の価値観と思想がぴったり自分に重なることもあるのかもしれないけれど、必ずしもそうではない。重なったり、重ならない部分があったり。歴史(思想史)を学ぶっていうのは、自分の考えや世界観、思想、知性などを練る場でもあるけれど、その営み自体は歴史科学を使って思想の歴史を明らかにすること。



それになかなか人に誇れるような生き方していないと思う。何の為に学んできたのか。
カネッティの言葉を思い出す、自己卑下みたいなのは偽装。ずるさの現れと言えるかもしれない。
これも自己卑下か。ただ本当に恥ずかしくないような生き方ができているとは自信をもっていえない。それはつまり後悔するような生き方をしていると言えるかもしれない。


どの宗教も死の問題と無関係なものはなかったと思う。
原始仏典もバラモン教を否定しているけれど、それは死の問題に関係していると言えるし、ブッダ自身の死んでいく者、老いて行く者、病んで行く者に対する驕りへの抗議。ブッダーのエピソードにお子さんを亡くして悩んでいる方との対話があるけれど、ブッダとしての解決があって、それは苦しみがなくというものではないけれど、真実と向き合った上でのたどり着けるところに連れて行ってくれていた。それも死の問題、死の苦しみが解決するとうわけではないけれど、ある意味の解決だった。



そういえば、孔子については斎藤正二先生がその思想の価値について否定していたことを思い出す。孔子の思想は封建道徳を支えるものだって。ここらへんにつっこんでいる時間とパワーがないけれど、大切な知の分野だと思う。孔子もイエスブッダも、プラトンも、教育理論、経済理論など、思想は見えないけれど、影響がとんでもなく大きい。見えないところで人を支配しているとも言えるかもしれない。


思想の世界はいりくんでいて複雑だ。ただ大事なことはシンプルだ。知らないことにそれほど病む必要はない。ただテキストを少しでも正確に理解しようという姿勢は大事だと思う。原始仏典に対する認識はそれほど大学時代に読んで理解したことが間違ってなかったけれど、他の分野では、いろいろ誤解しているところがあるかもしれない。


日蓮大聖人は深い。鎌倉時代の言葉だというのもあるけれど、今も認識が深まりつつあると思う。一つ一つの言葉を時代状況から考えないと理解ができない。



カントなど大事だ。
物事の本質を原理的に理解すること。カネッティみたいにつっこみたくなるけれど。



大切なことはシンプルで、分かるようになっているし(これで十分なのか)、いくら考えても理性に答えが出ない問題がある。科学的に答えが出ない問題(世界は無限なのか、有限なのかなどの問題)にああでもない、こうでもないと争うのは愚かなこと。そこに科学的な答え、世界観は出てこないけれど、答えがない問題に答えてきたのが人間の歴史。そこは科学的な答えではないけれど、本人が信じることができればよくて、他の人と争うようなところではない。信じることで、どう生き方に影響するのかという問題は確かにあるのかもしれない。その部分も考えて賢明になりたい。その科学で分からないことに対する答えはいろいろあるけれど、何を信じるかで生き方がまた変わってくる側面は観察できるし、経験もできるところ。宗教社会学


世界観について科学的に分からなくてもしっくりくるところがあると思う。それでいいし、それを人に押し付けたいとは微塵にも思わない。ただその科学に答えがでないところを利用して(しかもその識別ができない人に対して)、人を騙すようなことをしてきたのも人間の歴史だと思う。嘘も方便で人を救うために嘘をつく人もいれば、お金もうけや権力を維持するために嘘(嘘というか科学的な答えが出ない答え・世界観・思想か)を使ってきた人もいた。今もか。


思想史の問題、誰がどんな考え・思想を持っているか、科学的に明らかにできることがたくさんある分野。それはできる限りしっかりやりたい。真理を求めたい。嘘はいやだ。