考えさせられるところがいっぱいあった、今まで学んできたことにつなげて。

ブッダプラトンもそうだけど、凄まじい影響を人類に与えている。

例えばブッダの解釈が誤読だったとしても、その解釈が社会を良い方向に変えるようなこともあれば、戦争に利用されるようなことも歴史には、あった。よかったとか悪かったとか、一概に言えるようなものではない複雑な様相。

初期の仏教徒とは、その後の仏教は同じ部分がありつつも、違ったものになっている。僕は大乗非仏説を大学生の時に学んで、信仰とどう折り合いを理性的につけて行けばいいのかという問題に向き合ったりしたけど、初期仏教は初期仏教として区別するけど、その後の解釈に解釈を重ねていくような展開で、その解釈が人を幸せにしたり、不幸にしたりするわけだけど、シンプルには、どう生かしていくかということ。

初期仏教のゴールには涅槃(ニルバーナ)と言っても、もう輪廻を終えることにあるわけだけど、その後の分派した仏教は、それが目的ではなくなっているものがある。それでいいのだと思う。歴史的な事実の区別と、それの応用はまた別の問題だから。そういったことの区別はついていないよりは、ついている方がいいとは思う。その上での信仰かな。

誤読しないで、ブッダプラトンも時代に制約された人だったわけだけど、普遍的に今でも通用する部分は大いにあるし、何よりもイエスブッダも魅力的で、思想だけではなくて、心に訴えるところがすごく大きい。だから、これだけ広がりもあるし、人の人生や社会に影響を与えてきたのだと思います。

清水さんのブッダ像というのは、一部だとは思う。最近読んだプラトンの研究書もそうだけど、原典を読むないとですね。古典なんですよね。原典でしか得られない、一般化できない、感情、細かいところがある。入門書や研究書も大切ですが。友岡雅弥さんもブッダ像も心に強く残っている。友岡さんと清水さんに共通するブッダの捉えは、ブッダ以前の思想との対決から仏教が生まれてきたということ。ブッダやルターもそうだけど、おかしな権威に対して追従しない思想と行動の煌めきは永遠だと思います。

今でいう因果推論は鍵概念に「反事実」があるのですが、ブッダも縁起思想の時には、その「反事実」と事実と比べるという方法がとられていて、すごいなあと思います。2000年以上前の話ですから。