「高い人間とは、自分より高いものを自分の上に持っている人間にほかならぬ。自分より高いものを自分の上に持たぬという意味で絶対的なのは、ただ低い人間だけである」
ジンメル『愛の断想・日々の断想』清水幾太郎訳、岩波文庫

「蒼蠅驥尾に附して万里を渡り碧蘿松頭に懸りて千尋を延ぶ」日蓮

よりよいものを見ようとか、よりよい経験をしようとはしてきたから、それによって、いくらか自分がよくなったことは間違いないと思う。

高校生の時に一流ものから触れようと順序の考え方を教えてもらって、僕は割と素直にそうするようにしてきた。1流に触れると2流、3流の区別がつくようになってくる。2流、3流のものばかりでは1流はわからない。そういう話。

振り返ってみて、真理だと思う。教師なんか、一流の教師にリアルな実践でも、本でも触れてみるといい。そういう人たちをイメージできれば、知れば、そうではないレベルものの区別はつくようになってくる。そういう人たちに触れなければ、、そういったよりよい仕事、教師が存在することをイメージできない、知らないまま、一流の区別がつかないままになるだろう。

文学でも写真でも音楽でもなんでも。だから音楽なんかは、どのジャンルの音楽でも傑作と言われるようなものをたくさん聞いてきたし、映画なんかそう。割とよくあることなのかもしれないけど物事の良し悪しも、そういった取り組みがあることで、少しずつだけど区別がつくようになってくる。

教育の仕事もそうですし、身近にも遠くにもいい仕事を知っているので、自分が偉いなんて全く思えないし、思ったことないですね。上の言葉などや高校生の時に教えてもらった時よりも前から、気づいたら、自信のない、自己肯定感の低い人間だったので生まれてずっとそうなのかもしれない・・・。生まれて幾らかの時間は違ったのかもしれないけど。

自分が最高のものや一番、一流などになれなくても(やるからには、そこを目指すのはいいことだと思う)、悪いものを悪い、よくないものをよくないと見抜けるのは、よく生きるのにとても大事なことだと思います。