ブーバーに学ぶ

『ブーバーに学ぶ』斉藤啓一

<抜書き>

道に生きることを、老子は「無為」と呼んだ。ブーバーは次のように説明する。
「これは全存在をあげての人間の活動であり、〈無為〉ともいわれる。かかる行為においては、もはや個々の存在は断片として存在せず、人間は部分的なもので動かされず、それゆえ、彼はこの世で何ものにも煩わされることはなくなる。ここにおいて人間は全体に包まれ、全体の中で安んじて活動し、人間は活動する全体的存在となる」
無為の人は、道(宇宙法則)とひとつに結ばれているがゆえに、全体の視野から物事を見るようになる。そのため、主体的な行為が求められる状況におかれても、こうは問わなくなる。
「今ここで、何を為すべきか?」
 彼は次のように問いかけるだろう。
「今ここで、何が為されるべきか?」 
 微妙な違いであるが、前者の問いは「自分」が主体となっているのに対し、後者は「世界」が主体となっている。道の人はいう。「自分が行うのではない。偉大なる英知である全体が〔自分を通して〕行うのだ」と。だから何の心配もなく、煩わされることを知らない。
 道の力のひとつになっているので、「我意」で何かをしようとしなくても、いや、そうしないからこそ、大きな力を発揮し、世界に創造的な影響力をもたすことができるのである。
「道に身をゆだねることは、創造を新たにすることである。自己を押し付ける者のもつ力はちっぽけで見えすいた力をもっている。自己を押し付けない者は、大きく底知れない力をもつ。為さない者こそが働くのである」(83項)

「われわれが絶望して、しかも、なおある人間のところへ行くとき、われわれは何を期待しているのだろうか? それは間違いなく、その人格を通して『それでもなお意味がある』と語りかけてくれる存在であろう」(122項)

悪となるなかれ
バール・シェムの孫ラビ・バルクが弟子たちにいった。
「すべての人間は、この世で何かを完成するために呼び出されている。世界はひとりひとりを必要とする。しかしいつも彼らの部屋に閉じこもり、座って勉強し、家から出ていって他人と話し合うことをしない人々がいる。それゆえに彼らは悪と呼ばれる。なぜなら、もし彼らが他人と話し合うならば、彼らに割り当てられたものの何かを完成するであろうから。孤独によって悪となってはならない」(200項)

ある教育者が「仕事で絶対に失敗しない公式があれば教えてほしい」と質問したとき、次のように答えている。
「人がこの世界でできることは、世界を正しい方向に一インチでも動かそうとする努力だ。それができれば、人は多くのことをやり遂げたことになる」〔247項〕

ブーバーは、たとえ聖書であっても、外的な権威を盲信することはなかった。あくまでも内なる魂の声にしたがったのである。
「神と聖書のどちらかを選ばなければならないとき、自分が信じる神を選ぶことに、何の驚くべきこともない」(264項)

 日常と切り離して、特別に「神聖なもの」を差別化する儀式を、彼は評価することができなかった。ブーバーにとっては、生活そのものが神聖な行為の舞台だったからだ。(265項)

「私はユダヤの哲学者ではありません。私は宇宙の哲学者なのです……」(320項)