自由からの逃走

自由からの逃走 新版

自由からの逃走 新版

昭和26年12月30日初版
平成14年3月15日110版

版を重ねつづけているだけに、生命力ある社会学の古典。

フロムは新フロイト学派という心理学的立場から人間の自由を解明する。

フロイト学派は、社会学化されたフロイト主義で、社会的な人間関係のなかで形成される衝動や欲求を考えることによって、フロイトのすべてを性でぬりつぶす汎性主義を克服している。

歴史を動かす力とはなにかという問題に対して、フロムは、社会経済的条件、イデオロギー、社会的性格を三つの要因として提出した。社会経済的条件とイデオロギーとの相互依存関係において社会的性格や自由の解明を試みる点に本書の魅力がある。

↓感想と抜書き

無意識も含めて全て自分自身だからなぁ。服従=自由からの逃走ではなく、自分自身に生きるとは何かという問題について考えさせられました。

服従の対象には神や金力、カリスマ的指導者、世間、メディア、科学の理論などあらゆる外的権威、また良心、義務感、超自我などの内的権威がある。これらの権威の存在を認めた上で自分自身どう生きるのか?

大事なことは、どんな権威も無批判には受け入れないこと、言い換えれば、フロムの言う積極的自由や真の理想に適う合理的権威であるかを、よく吟味することだ。真の理想に理性と感情、意識と無意識が調和する生き方があるらしい。以下の判断基準に、ほぼ賛成。

積極的な自由の原理とは「独自の個人的自我に優越した力は存在せず、人間はその生活の中心であり目的であること、また人間の個性の成長と実現とは、目的それ自体で、たとえより大きな尊厳をもつように思われる目標にも、けっして従属しないということである」(291項)

「真の理想にはすべて一つの共通したものがある。すなわちそれらは、まだ実現されてはいないとしても、個人の成長と幸福という目的にとってのぞましいものを求めようとする欲求を表現しようとしている」(292項)

「真の理想とは、自我の成長、自由、幸福を促進するすべての目標であり、仮想の理想とは、主観的には魅惑的な経験(服従への衝動のように)でありながら、じっさいには生に有害であるような、強迫的な非合理的な目標と定義するにいたる。いったんこのような定義をみとめれば、本当の理想とは、個人に優越するある仮面をかぶった力ではなく、自我の徹底的な肯定の、明らかな表現であることになる。このような肯定と対立的な理想は、すべてまさにこの事実のよって、理想ではなく、病的な目標であることは明瞭である。」(293項-294項)

フロムは合理的権威を例外として認めている。「合理的権威は―真の理想のように―個人の成長と発展という目標をもっている。それゆえそれは、原則として個人やかれの現実の目標と対立することはなく、かれの病的な目標と衝突するのである。」(296項)

非合理的権威に対する徹底的服従と自己滅却的自己犠牲を批判しているのに共感。「われわれの定義によると、自由とはより高いどのような力にも服従しないことであるが、これは生命の犠牲もふくめて、犠牲というものを排除することになるであろうか。このことは、ファッシズムが自己犠牲をもっとも高い徳として要求し、多くのひとびとにその理想主義的な性格を印象づけているこんにち、とくに重要な問題である。(原典の初版は1941年)この問題にたいする答えは、これまでにのべたことから論理的に帰結してくる。犠牲にまったくことなった二つのタイプがある。われわれの肉体的な自我の要求と、精神的な自我の目標とが対立抗争することがあること、すなわちじっさいに、われわれの精神的自我の統一性を確保するために肉体的自我をときに犠牲にしなければならないことがあるのは、人生の悲しむべき事実の一つである。この犠牲はけっしてその悲劇的な性質を失わないであろう。死はけっして甘美なものではない、たとえ最高の理想のためにたえしのぶばあいであっても。死は言語を絶してつらいものである。しかも死はわれわれの個性の最高の肯定であることがある。このような犠牲はファッシズムが教える「犠牲」とは根本的にことなっている。ファッシズムにあっては、犠牲は人間が自我を確保するために払わなければならない最高の値ではなく、それ自身一つの目的である。このマゾヒズム的な犠牲は生の達成をまさに生の否定、自我の滅却のうちにみている。それはファッシズムがそのあらゆる面にわたってめざすもの―個人的自我の滅却と、そのより高い力への徹底的な服従―の最高の表現にすぎない。それは自殺が生の極端の歪みであると同じように、真の犠牲の歪みである。真の犠牲は精神的統一性を求める非妥協的な願望を前程とする。それを失った人間の犠牲は、たんにその精神的な破綻をかくしているにすぎない。」(294、295項)